それにしても。 主体たれ、というこの国の戦後史が禁じた自己実現への欲望を最後まで 抑止しようとした「エヴァンゲリオン」の直後に起きた神戸連続児童殺傷 事件は、主体をめぐる欲望にとうとう抗い切れずそれを解き放った点で戦 後のサブカルチャー史の終着点にあるようにぼくには思える。そして少年 のような若者が多数派であるとするならば、消費財としてのサブカルチャ ーは否応なく主体をめぐる欲望に輪郭を与え、言葉を与える物語を紡ぐ必 要に迫られる。神戸の事件と前後して急速に「公」や「国家」といった主 体の構築に向かっていった小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』はその意 味ではサブカルチャーとして敏感な選択だったといえる。そこで語られる 「公」や「国家」が「酒鬼薔薇聖斗」の代替物として相応の訴求力を持っ ていることは確かだし、少年の透明な主体はぼくが透明なナショナリズム と感じるものの一つの前史であったと今になれば思うことは可能だ。 (大塚英志『「おたく」の精神史』 講談社現代新書/P426) それにしても。 それにしても、である。 「主体」であるために、「公」や「国家」が必要とされるような そんな空気のなかを生きるのはかなりつらいことだ。 なぜこんなことになってしまうのだろう。 そのあまりの稚拙さと安易さのなかに 答えが求められてしまうというのは 思考停止の最たるものだとしか思えない。 そのあまりに葛藤のない世界観。 真の意味で「驚き」を持つことのない脆弱な自我意識。 あらためてシュタイナーがなぜ教育に深く関わったのか、 関わらなければなかったのかについて考え込んでしまう。 『十四歳からのシュタイナー教育』(高橋巌訳/筑摩書房)で シュタイナーは9歳から10歳の時期をとても重要だととらえている。 子どもは人生のこの時期に、はじめて自我意識をもつようになります。 ですから鉱物界、植物界、動物界のすみずにまで感情を働かせ、そのい たるところから自分に光輝いてくるものを見、そして自分でその意味を 感じ始めます。このことは9歳から10歳にかけての時期に現われるの です。もし私たちが子どもにふさわしい行動を行なわせず、子どものイ メージ豊かな活動を抑えてしまうなら、子どもは自我を目覚めさせるこ とができません。実際、現代の教育環境の中では、子どもの自我は目覚 めることができないのです。 (…) 現代人は、子どもの時に人生を美しいと感じることを学ばなかったため に、人生から何も驚嘆すべきものを見つけ出せなくなっています。これ が現代の特徴です。乾き切った仕方で、何らかの知識内容を豊かにする ことだけが求められているのです。けれども、いたる所にある隠された 美を見つけ出すことができません。こうして人生との深い関係が失われ ます。人間と自然との深い関連を失わせるのが現代文化のいとなみなの (P176-177) 「鉱物界、植物界、動物界のすみずにまで感情を働かせ」、 「人生から何も驚嘆すべきものを見つけ出せ」ないとき、 そこで目覚めるべき自我は、いつまでも眠り込んだままになってしまう。 そして眠り込んでいる自我は容易になにかに憑依されてしまいやすくなる。 自我は目覚めないまま「個」的なありかたを通過することなく 容易にハイアーセルフ化したと称したり、 宇宙と一体化したといったりするようにもなるし、 それが姿を変えた場合、「公」や「国家」ともなっていくのではないか。 シュタイナーのいうように木星紀にもなれば 「個」の時代とはいえないのかもしれないが、 意識魂を育てるべき時代において 個の時代が早々に終わるわけでもないだろう。 むしろちゃんと自我が目覚めることによって 「私」が次のように池田晶子もいうように 無私へと向かうことが可能になるのではないだろうか。 なるほど、考えている精神は、そう言うならば「私」であるが、その 「私」が考えているのは、世界であり歴史であるのだから、「私」と は、すなわち、世界であり歴史である。この「すなわち」が、したが って、言ってみれば、無私の秘密であろう。 (池田晶子『新・考えるヒント』講談社/P222) しかしさらにいえば、そのとき重要なのは、 上記のシュタイナーの引用にもあるように 「鉱物界、植物界、動物界のすみずにまで感情を働かせ」ることで、 そうでなければ、「世界」や「歴史」は とても抽象的で観念的なものになってしまいかねないということだ。 池田晶子がその任侠的なありようによって、 ある種の保守関連に誤って受容されてしまうことがあるのも そうした陥穽ゆえなのではないかと思われる。 |
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