風のトポスノート508

 

言葉


2004.02.21

 

キムタク主演のテレビドラマ「プライド」は
そのあまりの陳腐さにすでにみなくなっているけれど、
それがきっかけでひさしぶりに
このところクイーンをくりかえしきいていたりする。
 
主題歌に選ばれている「I WAS BORN TO LOVE YOU」の
収録されているアルバム「MADE IN HEAVEN」もきいてみることにした。
1991年のフレディー・マーキュリーの死後、4年経って発表されたものだ。
 
そのアルバムの中心になっているのは
1991年の1月にスイスのモントルーで録音された5曲だという。
アルバムの最初に置かれている「IT'S A BEAUTIFUL DAY」や
フレディーが最後につくった曲といわれている
「A WINTER'S TALE」がぼくにはとくに印象に残る。
 
「A WINTER'S TALE」のクライマックス近くに
IT'S AAAAAAALL SO BEAUTIFUL!というところは
とりわけ感動を呼ぶ。
 
BEAUTIFULということ。
ある意味でとても陳腐なことばだともいえるが
同じ言葉がこんなにも感動をもって歌われている驚き。
死を前にして歌われるBEAUTIFUL。
これをききながら思い出していたのは
シベリウスのトゥオネラの白鳥。
それをはじめてきいたときに受けた感じと
どこかで通じているところがあるようにも思えた。
 
日常のなかに埋もれながら生きていると、
「生きている」というよりも「生活」していると
BEAUTIFULと真に感じることが
あまりに少なくなってしまっているのだが、
こうしてあまりにもまともにシンプルに真っ正面から
IT'S AAAAAAALL SO BEAUTIFUL!!!と歌われてしまう驚きの前で
BEAUTIFULという言葉の本来の意味が垣間見えてくる。
 
言葉、言葉、言葉。
あまりにも慣れすぎた言葉。
擦り切れてしまっている言葉。
コピー化されて陳腐とさえいえなくなってしまっているような
数限りない言葉たち。
 
ちょうど、池田晶子の新刊『新・考えるヒント』の第7章「言葉」に
こんなことが述べられているのが
BEAUTIFULという言葉がまったく神秘的なまでの深みをもって
伝わってくるのと通じているように思えた。
 
         何でもよい。簡単な単語の一語でももってきて、つらつらと眺めて
        みるがよい。その語がその語であるのはなぜなのか、その後がその語
        であるとはどういうことなのかを、一度じっくりと考えてみればよい
        のだ。たとえば、「赤」という語、辞書を引けば、「色の名、血や夕
        焼け空のような色、三原色のひとつ」と書かれてある。それなら、血
        や夕焼けのような色を指して何と呼ぶか。「赤」という語を用いずに
        説明できるか。「赤」という語を、あの色によらずに説明できるか。
         その後はその語以外のものを、どうやっても指示しないと気づくは
        ずだ。いや「指示」ではない。指示といえば、語と対象、名と物とは、
        先に別物と前提されている。しかし、その語とはその対象そのもの、
        名とはその物そのものなのだから、この言い方は正確ではない。何か
        物を指してその名で呼ぶ、その物をその名で呼ぶ、その瞬間、その発
        語とは、ひとつの創造、ひとつの絶対的な動作の姿なのだ。「光あれ」
        と名づけた瞬間に光があったという、あの絶対的な創造の瞬間を、発
        語するたびわれわれは繰返しているのだと、はっきりと気づかれるの
        ではないか。
         その意を求めればきりがない言葉とは、すなわちひとつの謎である。
        したがって、発語するとは、謎を謎のままに踏み越える絶対的な動作  
        であって、発語とは一種の宗教的な儀礼のようなものだというのは、
        このような意味である。言葉をもって、自分の自由に使える道具とみ
        なすのは、現代人に特有の浅はかな傲慢である。古人たちは皆、言葉
        のこの謎、この絶対的働きを知り抜いていたから、言葉を畏れ、言霊
        を信じた。言葉が生活と結びついていたというよりも、言葉が生活そ
        のものだったのである。「太初に言ありき」とは、この事実以外のこ
        とではない。
        (P109-110)
 
「A WINTER'S TALE」のなかでフレディが歌いながらもらす
溜息のような言葉以前のような溜息のような声があるが
そういう音というか息から伝わってくる
神秘的で不思議な響きへの感受性を失わないでいること。
あまりに言葉の軽くなってしまっている現代だからこそ
ときおり思わず発してしまうBEAUTIFULような言葉がつくりだす
何かを感受できるようでありたいと思うのだ。
そういう意味でいえば、世にあふれるほど掲示されているような
標語のような言葉はまさに死んだ言葉以外の何ものでもない。
感受性が死んだところだからこそ
ああした言葉が垂れ流されてしまうことになるのだろう。
しかし、仕事で広告に携わっていると
そうした死んだ言葉の亡霊が常に骸骨のように踊っているなかに
みずからの身を置いていることがあまりに多い。
せめて自らの身を亡霊のようにだけはしないようにし、
少しでもそこに生きた要素を入れたいものだとは思うのだが、
やれやれである(^^;)。
 


■「風のトポスノート401-500」に戻る
■「思想・哲学・宗教」メニューに戻る
■神秘学遊戯団ホームページに戻る