風のトポスノート503

 

観るということ


2004.01.11

 

         観というのは見るという意味であるが、そこいらのものが、電車だとか、
        犬ころだとか、そんなものがやたらに見えたところで仕方がない、極楽浄土
        が見えて来なければいけない。無量寿経というお経に、十六観というものが
        説かれております。それによりますと極楽浄土というものは、空想するもの
        ではない。まざまざと観えて来るものだという。観るということには順序が
        あり、順序を積んで観る修行を積めば当然見えて来るものだと説くのであり
        ます。
        (…)
         禅宗というものが宋から這入って来て拡がった後は、禅観の観の方を略し
        て、禅というようになったが、それ以前の仏教では、むしろ禅の方を略して
        観と言っていた、止観と言っていたようである。止という言葉には強い意味
        はないそうです。観をするために、心を静かにする、観をするための心の準
        備なのであって、例えば、法華経の行者が山にこもる、都にいては心が散っ
        て雑念を生じ易いから山に行く、平たく言えばそれが止であります。
        (小林秀雄『私の人生観』より)
 
観るということは、極楽浄土を見ることだというのはとても面白い。
それから、観というのは、禅であり、止観であるというのもなるほどと思える。
心を散らさず極楽浄土を見るために、ときには山にこもる必要もでてくる。
 
しかしできれば、山にこもらずに極楽浄土を観たいものだし、
そうでなくてはその「観」はあまりに特別なものになってしまう。
そうでなくて、あらゆるものに「極楽浄土」を観ることができるようになりたい。
 
ところで、「極楽浄土」といはいったいなんだろう。
「空想」するものではなく、「まざまざと観えて来る」極楽浄土とは。
ドラッグをやって見えてくるようなものを極楽浄土とはいわないだろう。
それは極楽浄土のように見えるヴァーチャルな地獄だといったほうがいい。
 
「観」において重要になってくるのも、
やはり「中」ということなのではないかと考える。
もちろん、ほどほど、という意味での「中」ではなく、
多様性を内包した弁証法的統合としての「中」の「観」である。
 
その中なる観のためには、3つの基本があり、
それぞれに両極の反復横飛び的振幅の総合が求められるというふうに
ぼくは考えている。
 
そのひとつめは、短いスパン、つまり目先で見るという観と
長いスパン、つまり長い目で観るという観の双方を持ち、
その両者の観を総合する。
長いスパンで見るということが忘れられがちなので
その方を重視するという見方もできるが、
それだけだとやはり今を見ることがおろそかになる。
今を見ながら先を見る、先を見ながら今を見る。
その反復横飛び的総合が不可欠である。
 
2つめは、一面的に見るという観と多面的に見るという観を総合する。
これも、一面的に見ず多面的に見ることのほうが強調されがちだが、
必ずしも多面的であればそれでいいというわけではない。
部分と全体の関係において、部分の和が全体とは限らないし、
また全体が部分をすべて包含しているとは限らないように、
その両者にも反復横飛び的総合が不可欠となる。
 
3つめは、枝葉末節で見るという観と根本的に見るという観を総合する。
これも同様に、物事は根本的に見るほうが重要で
枝葉末節で見るのは劣っていると見られがちであるが、
根本的に見ることによって見えなくなっていることもあることを
忘れてはならないように思える。
樹を観るのには、幹や根だけ観るのではなく、
やはり枝や葉をもちゃんと観る必要がある。
 
こうした、立体的な3つの観の反復横飛び的総合の観を持つことによって
「極楽浄土」は山にこもることによってではなく、
今、ここにおいて、現実的なもの=創造的なものとして
姿を現わしえるのではないか。
少なくともその端緒となるのではないか。
逆にいえば、そういう3つの観がなければ
少なくとも極楽浄土への道とはなりえないのではないか。
そんなことを考えたりもしている。


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