<ここだけの話だが、私はつねに、もっとも天上的な思想と、もっとも現世的な 生活の間に、奇妙な一致があることを見て来た。> <私には、われわれの学問のうちでは、もっとも高く昇ったものが、もっとも現 世的かつ下界的であるように思われる。> ではこの<両極の地帯>の競合と一致に、彼は何を見出しているのであろうか。 人間の存在そのものである。 (堀田善衛『ミシェル 城館の人/精神の祝祭』P323) 人間は人の間と書くが、その「間」というのは、 「天上」と「現世」との間でもあるのだろう。 そして、人を鏡にしながら自らを現出させるところがあるように、 「天上」に向かうことでこそ、はじめて「現世」、「下界」において その存在を真に展開させることができるようになる。 「天上」に向かうだけのベクトルはおそらくは ルシファー的な眩惑にすぎないのかもしれない。 キリストは、地上に降下し、人間となり、 磔刑に処された後、地下の世界へと赴いた。 もっとも高きものこそが、もっとも地下へと降ることができる。 第一ヒエラルキアこそが、物質に働きかけることができるのもそれに似ている。 シュタイナーの『第五福音書』に、エッセネ派のことが述べられている。 イエスは母に言います。 「エッセネ派の人々と大事な話をして、帰ってくる時、門のところにルツィフェ ルとアーリマンが逃げていくのを見たのです。エッセネ派教団の人々はその生活 と秘密の教義そのものによってルツィフェルとアーリマンから身を護っているの です。ですから、ルツィフェルとアーリマンはエッセネ派教団の門の前まで来て、 逃げていくのです。けれども、エッセネ派教団の人々がルツィフェルとアーリマ ンを追い出すことによって、この悪魔たちは他の人々のところに行っているので す。他の人々を犠牲にして、エッセネ派教団の人々は魂の清浄さを得ているので す。彼らはルツィフェルとアーリマンの影響を免れることによって平安を得てい るのです。」 これは「解脱」を目指す仏教的なありかたに似ている。 自分の部屋を綺麗にするために、ゴミを部屋の外に掃き出してしまうのにも。 何度かご紹介したシュタイナーの「社会の未来」にもある 「自分がどんなに善良な存在であるかという幻想を抱いて生きようとしたり、 指をしゃぶってきれいにして、他の人間よりも自分の方が清らかである、 と考えたりするのではなく、私たちが社会秩序の中にあって、幻想にふけらず、 醒めていることが必要なのです。」という観点とも通じたとらえ方である。 モンテーニュは、『エセー』の最初のほうでは、 ストア派的な傾向がみられたりもするが、 次第に、<両極の地帯>の競合と一致、のような在り方へと向かう。 いわば、堀田善衛のいうところの「二項対立の突破」。 それは、国政にも携わりボルドー市の市長を二期も努めながらも、 「国民」であることや「故郷」に属していることからからの「突破」でもある。 <ソクラテスは、お前はどこの人かとたずねられて、「アテナイの人だ」と答え ずに、「世界の人だ」と答えた。> ・・・ <ソクラテスがそう言ったからではなく、本当の気持ちから言うのだが、そして 少しは誇張がないわけではないが、私はあらゆる人々を私の同胞だと思っている。 そしてポーランド人をもフランス人と同じように抱擁し、国民としての結びつき を、人間としての普遍的な共通な結びつきよりも下位に置く。私は生まれた国 (故郷)の甘い空気にしがみつくつもりはない。(中略)自然はわれわれを自由 な、束縛されないものとしてこの世に生み出したのに、われわれは自分をある特 定の場所に閉じ込める。> (同上/P350-351) 「世界の人」であること。 それは、自分をどこかに閉じ込めないこと、 しかも自分をどこかから逃避させないことなのだろう。 まさに「中」を生きること。 それはまた、結局のところ、 「生」から逃避することなく、 「生」のみにみずからを閉じ込めることのない 「生」と「死」という二項対立からの「突破」ともなるのではないだろうか。 |
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