風のトポスノート501

 

自分を質に入れない


2003.11.11

 

          ところで、『エセー』の2巻分を書いたところで、モンテーニュはふたたび
        現実社会に呼び戻され、父親と同様のボルドー市長を2期つとめた。これはま
        さに二世議員である。
         しかしモンテーニュはカトリックとプロテスタントの仲介をするのに疲れ、
        「シャツを着た以上はシャツを着た人間として振る舞うが、シャツと皮膚とは
        異なるものだ」と言って、またまたシャツを脱いでしまうのだ。そこからが
        『エセー』3巻以降にあたる。だからモンテーニュの真骨頂に出会えるのは、
        3巻から先になる。
         このような『エセー』が結局ぼくに示唆したことは、「自分を質に入れな
        い」ということだった。
         だいたい人間というものは、学生になれば学生になったで、仕事につけば
        仕事についたで、結婚すれば結婚したで、父親になれば父親になったで、政
        治家や弁護士になるとまたその分際で、その社会の全体を自分大に見たがる
        ものである。とくに選挙に出る政治家は自分を自分大にするだけではなく、
        社会が自分大だと思いこむ。つまり「自分を質に入れよう」とする。そして、
        どうだ、質に入れたんだぞ、不退転の決意だぞといばる。
         だが、そんなことはめったに成り立つはずはなく、たいていはその質を入
        れた質屋を太らせるだけなのだ。
         モンテーニュはこのことをよく見抜いていて、どんなものにも自分を質に
        入れて偉がることを戒めた。そして、そこからずれる自分のほうを見つめる
        ことを勧めた。その「ずれ」をそのまま綴ることが、また、エセー(エッセ
        イ)という新しい思索記述の方法をおもいつかせたわけなのである。
         だからこそ、市長をつとめたモンテーニュは自分のことを、こう定義して
        はばかることがなかったのである。「自分は義務・勤勉・堅忍不抜の公然た
        る敵である」。
 
        松岡正剛の千夜千冊 第八百七夜【0807】2003年11月10日 より
        ミシェル・ド・モンテーニュ『エセー』全6冊 1965 岩波文庫
        http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0886.html
 
自分を質に入れない、という表現はおもしろい。
「シャツを着た以上はシャツを着た人間として振る舞うが、
シャツと皮膚とは異なるものだ」と言い、
シャツを脱いでしまう、というのも、なかなかいい。
 
じっさいのところ、人は着ている「シャツ」を
自分だと思い込みたがる。
議員バッジをつけていないとただの人になる、という政治家もいるし、
「野に下る」という大げさなセリフもよく使われる。
 
職業やそれにともなった肩書きをシャツにしているひともいるし、
学歴やら社会的役割やら家系やら男やら女やら、
親だ子だお父さんだお母さんだというようなものにいたるまで
そのシャツを着た人間としてふるまいたがる。
ベンツに乗ってベンツを自分だと思いたがるような人もいる。
 
「自分を質に入」れて、自分をシャツにする。
その「質に入れ」た自分はいったいどうなってしまうのだろう。
利息分を随時払っていかないとその自分は流れてしまうことになる。
流れないとしてもずっと利息分を払い続けなければならないが、
そのうちに「自分を質に入」れたことは忘れられていくのだろう。
そしていつかどこかの店頭で、「質に入れ」られた自分が売られていたりもする。
 
風呂に入るときはシャツを脱がなければならない。
夏目漱石の『我が輩は猫である』には、銭湯のシーンがでてくるのを思い出した。
ひさしぶりにめくってみる。
 
        衣服はかくの如く人間にも大事なものである。人間が衣服か、衣服が人間か
        と云う位重要な要件である。人間の歴史は肉の歴史にあらず、骨の歴史にあ
        らず、血の歴史にあらず、単に衣服の歴史であると申したい位だ。だから衣
        服を着けない人間を見ると人間らしい感じがしない。まるで化物に邂逅した
        様だ。化物でも全体が申し合わせて化物になれば、所謂化物は消えてなくな
        る訳だから構わんが、それでは人間自身が大に困却する事になるばかりだ。
        その昔し自然は人間を平等なるものに製造して世の中に抛り出した。だから
        どんな人間でも生まれるときは必ず赤裸である。もし人間の本性が平等に安
        んずるものならば、よろしくこの赤裸のままで生長して然るべきだろう。然
        るに赤裸の一人が云うにはこう誰も彼も同じでは勉強する甲斐がない。骨を
        折った結果が見えぬ。どうかして、おれはおれだ誰が見てもおれだと云うと
        ころが目につく様にしたい。それについては何か人が見てあっと魂消る物を
        からだにつけてみたい。何か工夫はあるまいかと十年間考えて漸く猿股を発
        明してすぐさまこれを穿いて、どうだ恐れ入ったろうと威張ってそこいらを
        歩いた。これが今日の車夫の先祖である。
 
みんなが赤裸であるけばいいとは思わないけれど、
衣服そのものの差しかその人の差異がないというのはやはり悲しい。
 
ところで、モンテーニュに関心をもったのは、
堀田善衛の『ミシェル城館の人』三部作を読んでからのこと。
これはなかなか面白い。
ぼくが堀田善衛にはまったのもこの三部作がきっかけになっていて、
しばらく堀田善衛漬けになっていたことがある。
店頭から消えて読めなくなってしまわないうちに、
ぜひ古書店なりでも、見つけておくことをお勧めしたい。
 
それはともかく、その後、岩波文庫の『エセー』全6冊を
いまだにちびちびと読み進めていていつ終わるかしれないでいる。
ひょっとしたらずっと終わらないかもしれないが、
放っておくには惜しいのでやはりちびりちびりと読む。
 
さて、「私は何を知るか?(クセジュ)」は、
モンテーニュの代名詞のようにもなっているが、
モンテーニュらしい探求の仕方だといえる。
「私は知らない」ではなく、「私は何を知るか?」
(白水社のクセジュ文庫はまさにモンテーニュ的探求を名称にしている)
 
「自分は義務・勤勉・堅忍不抜の公然たる敵である」というのも痛快である。
逆説的な表現でもあるのだろうけれど、
じっさい、自分から「義務・勤勉・堅忍不抜」を取り去ってしまったとき
じぶんが抜け殻になってしまうとしたらあまりに貧しいではないか。
ぼくにはその心配だけはなさそうだ(^^;)。


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