風のトポスノート500

 

おもちゃ


2003.10.19

 

柳田国男に『こども風土記』という昭和16年に刊行された著作があって、
いわば子どもの遊びがさまざまに紹介されている。
(岩波文庫に『母の手毬歌』とともに収録されている)
そのなかに、「おもちゃの起こり」という章があって、
「以前の玩具はほぼ三通りに分けることができたようである」とある。
 
まず、シュタイナーも子どものおもちゃとしてふさわしいと言う類のもの。
 
        最も数多いのは子どもの自製、拾ってすぐ捨てる草の実やどんぐりのような
        ものから苗床あねごとか、柿の葉人形とかの、うまくできたらなるだけ永く
        大事にしてしまっておこうとするものまで、親も知らないうちに自然に調え
        られる遊び道具、これを子どもは「おもちゃ」というものの中にいれていな
        い。
 
つぎに、「おもちゃ」という言葉の語源につながるもの。
 
        オモチャという語のもとは、東京では知らぬ者が多くなったが、今も関西で
        いうモチヤソビの語にオをつけたものにちがいない。その弄び物を土地によ
        っては、テムズリともワルサモノともいって、これだけは実は母や姉の喜ば
        ぬ玩具であった。もっとも普通に使われるのは物さしとか箆の類、時として
        は鋏や針などまで持ち出す児があって、あぶないばかりか、無くしたり損じ
        たりするので、どこの家でもこれを警戒した。
 
そして、「おみやげ」でもあった、現在のような玩具。
 
        第三には、買うて与える玩具、これが現今の玩具流行のもとで、形には奇抜
        なものが多く、小児の想像力を養うには十分であったが、如何せん、そうい
        う喜びを味わう折が以前はきわめて少なかったのである。おみやげという言
        葉でもわかるように、本来は物詣りの帰りに求めてくるのが主であって、し
        たがってその種類も限られており、だいたいにお祭りに伴うものばかり、た
        とえば簡単な仮面とか楽器とか、または神社から出る記念品のようなもので
        あったことは、深い意味のあることなのである。
 
シュタイナーはたとえば『霊学の観点からの子どもの教育』などでも、
本物そっくりのような「きれいなお人形」よりも、
子どもの想像力で補足する必要のある「古いナプキン」の人形を与えるほうが
脳の健全な発達にふさわしいと述べているが、
かつてはそれは、まずは親が与えるという類のものでさえなく、
「草の実やどんぐりのようなもの」を使って
自分でつくるものであることが多かったようである。
 
おもしろいのは、「おもちゃ」という言葉の語源が、
「母や姉の喜ばぬ玩具」としての「弄び物」だったということである。
この「弄び物」が今やすべての「おもちゃ」を総称する名前のもとになっている。
「母や姉の喜ばぬ」ものなのに、皮肉なことである。
 
さらなる皮肉は、「買うて与える玩具」が
今やほとんどすべての「おもちゃ」になっているということだろうか。
上記の引用にもあるように、「親も知らないうちに自然に調えられる遊び道具、
これを子どもは「おもちゃ」というものの中にいれていない」のである。
今や「シュタイナーのおもちゃ」でさえも、
「買うて与える玩具」に限りなく接近しているように見えるのだが。
 
しかし、興味深いのは、その「買うて与える玩具」が
「物詣りの帰りに求めてくるのが主」で、
「だいたいにお祭りに伴うもの」、「簡単な仮面とか楽器とか、
または神社から出る記念品のようなもの」であったということ。
そこにはどこか聖なるものとしての「おもちゃ」の可能性が
発想としても隠されているのかもしれない。
これは一考を要するところである。
 
それはともかく、日本の各地に伝わる子どもの遊びのさまざまは
子どものファンタジーを総動員しながら
脳を健全に発達させてきたのであろうし、
そこにはさまざまなヒントがたくさん隠されているように見える。
 
しかし、「拾ってすぐ捨てる草の実やどんぐりのようなもの」に
ふれることのできる環境が貧困になってしまうと
そういう想像力を育てる機会がどうしても少なくなってしまう。
これは子どもの問題でもあると同時に、大人自身の問題でもある。
大人自身にそういう想像力が欠けてしまうときに、
大人がつくりだせるファンタジーはいったいどのようなものなのだろうか。


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