風のトポスノート499

 「何もない」というところから


2003.10.18

 

島田雅彦のエッセイ集『植民地のアリス』(朝日文藝文庫/1996.6.1発行)の
「巻末エッセイ」で、辻仁成が、島田雅彦について
次のように書いているのが印象に残った。
 
        団塊の世代や、戦中派といった強大な勢力を持った先達が、イナゴの
        大群のようにあらゆるものを奪っていった後の残り粕のような今とい
        う時代を、彼は確かに検証し、再構築しようとしている。
        本当に我々の時代にはもう何も歌うべきことがないだろうか。何も書
        くべきことがないだろうか。彼は何もないということを果敢に書こう
        としているような気がしてならない。それは物凄く勇気のいることだ
        と思う。
 
いつのまにか島田雅彦の作品を読む機会が
ほとんどなくなってきているのにあらためて気づいた。
島田雅彦の登場した頃にはわりと読んでいたが、
その名前を頻繁に目にするわりには
その作品に興味が引かれることが少なかった。
とくに読みたくないというのでもないけれど、立ち読みをしていても、
ぼくに一押ししてくれる衝動のようなものがいまひとつわいてこない。
最近でも、恋愛三部作とかいう話題作を書いているようで、
それも、おもしろそうだとはたしかに思うのだけれど。
 
そうなのかもしれない。
「彼は何もないということを果敢に書こうとしている」のかもしれないのだ。
だからその活動については常にある関心を持てるものの、
その「何もない」ということだけはどうすることもできないのかもしれない。
 
おそらく順序が逆になってしまっている。
順序などどうでもいいともいえるのだけれど、
言葉がやってくるのではなく、
言葉を何が何でも招喚しなければならないとき、
その勇気を賛美することができたとしても、
その言葉そのものの在処がわからなくなってしまう。
 
ぼくは広告の仕事でコピーなどを書いていたりもするから
言葉を招喚しなければならない空虚さは日々痛感させられることが多いのだが、
広告の言葉とかぎりなく近くなってしまっている言葉たちを使って
なにかを表現しようと「果敢に書こう」とする試みはどこかで
コピー性から離れられなくなってしまうところがある。
 
島田雅彦の世代以降は、ーー島田雅彦はぼくよりも数歳年下ではあるが、
ぼくの世代もすでにそうだったようにーー
「何もない」というところから出発せざるをえない。
その「何もない」というのは、同時代およびそれまでの世界観に基づけば、
「何もない」といわざるをえないということで、
そういう意味でも、世界観そのものを
たとえば、シュタイナーの精神科学のような在り方のように、
根底から変容させなければ、そのまま
「何もない」以外の何ものでもなくなってしまうということに他ならない。
 
ぼくがひさびさ目にした島田雅彦の『植民地のアリス』というタイトルに
ふとひかれるものを感じ、その巻末エッセイを通じて思ったのは、
島田雅彦の「果敢に書こうとしている」場所は、まさに「植民地」であって、
そこでみずからが「アリス」となってワンダーしている!ということだった。
すでに、「本国」では、「何もない」状態になってしまい、
「植民地」で、その「本国」を再現するしかない状況。
 
東浩紀のいうような「データベース型世界」は
さらに進んで「植民地」意識さえ消えてしまったところに
成立する「ポストモダン」的なものだったりもるすが、
そのように、「何もない」ところを妄想で埋め尽くそうとするか、
それとも、「何もない」ということそのものから
その「何もない」という世界観を問い直そうとするかが
これからの世界の行方を決めることになるのだろう。
 
仏教でいう「空」なども、それが霊的事象という意味ではなく、
「からっぽ」ということしか意味しなくなったり、
そこにさまざまな妄想を流し込んでしまうような不毛があるが、
そういうところからは真の「リアリティ」は何も生まれてはこないのだろう。
たとえば、葬式仏教のようなものしか生まれてくるしかなかったように。


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