風のトポスノート497

 

文字を聞く・文字を話す


2003.9.28

 

        日本を勉強している学生が、作家の写真やサインを売っている店が
        ハンブルクにもあると言うので、いくらドイツ文学ファンが少なか
        らずいるといっても、そんな店は成り立たないだろうと言うと、そ
        の店はとても流行っていると言う。わたしは驚いたが、話している
        うちに、彼が「作家」ではなく、「サッカー」のことを言っている
        ことが分かった。「作家」と「サッカー」も、最後の母音が長いか
        短いかの違いしかない大変似通った単語だが、母音の長短が決定的
        な区別の基準になる日本語の内部に住んでいる人間には、似ている
        とさえ感じられない。それに、漢字やカタカナを思い浮かべながら
        しゃべっているので、この二つの単語はわたしたちにとっては清少
        納言風に言えば「近くて遠いもの」なのだ。
        (多和田葉子『エクソフォニー』岩波書店2003.8.20発行/P48-49)
 
日本語の表記には、主にひらがな、カタカナ、漢字があって、
話しているときでさえ、その表記を思い浮かべていることが多い。
単なる音ではなく、その表記の違いがかなり重要なので、
「作家」と「サッカー」のように、音がかなり近似していても、
その両者にはかなりの距離がある。
 
この『エクソフォニー』に収められているエッセイ「奥会津」には、
「病院」と「美容院」の例も挙げられていてなるほどと思うのだが、
まだこのほうが、「作家」と「サッカー」よりは近い気もする。
 
こうした例は、日本語以外においても起こるだろうし、
それぞれの言語の特徴に応じて
言葉と言葉の近さと遠さの感覚は違ってくるのだろうが、
日本語においてやはり意識しておく必要があるのは、
石川九楊も言っているように、日本語は二重言語であるということだろう。
 
日本語の基本は、中国からきた漢語と和語によって成立していて、
構造的には漢語の詞を和語のテニヲハが支えている。
そして漢字というのは文字中心の「文字を聞く」書字になっている。
音読みと訓読みというのも、音読みは表記言語としての漢字からきていて、
訓読みはいわば話し言葉的なものというか、日本語の母胎となっている。
しかも最近では、そうした中国語と和語の二重言語的な在り方に加え、
西欧語のアルファベット言語もカタカナ表記を使うことで、
巧みに?取り込もうとしていたりもする。
 
そして、日本語で話しながら私たちは、
漢字とひらがなとカタカナを思い浮かべながら話している。
つまり、ただ音を出しているだけではなく、
その音をアウトプットとしてもっている形象を多重的に舞踏しながら話している。
しかも、アウトプットとしての音にしても、特に漢字の部分においては、
常に別の音の可能性を同時に有していて、
対話のなかでも、同じ表記を別の音を使って表現しあうということもでてくる。
人の名前でさえも、漢語的な読みと和語的な読みとが同時並行的にイメージされる。
だから、「作家」と「サッカー」は、
音としては近くてもかなりの距離があるのも
当然といえば当然のことになってくるわけである。
 
オイリュトミーやフォルメンなどをシュタイナーが重要視した側面には、
西欧のアルファベット言語においては、
記号化されたアルファベットと抽象化された音だけの
機能的ではあるけれどもある意味貧しくもある在り方を
克服しようということもあるのではないかと思われる。
 
従って、日本においてそうしたものをとりいれる際にも、
西欧においてなされているようなものを
そのままとりいれることはできないだろう。
しかも、自我の在りようそのものの基盤が異なっているため、
舞踏家の笠井叡もいっているように、
それらだけが精神科学的な認識から離れてしまうと霊的なくる病のような、
非常に危険なことになってしまうことにもなりかねない。
 
ちょっとした極論ではあるのだけれど、
松井孝典、横山俊夫の鼎談のなかでも石川九楊が語っているように、
「書くように話せ」ということも重要なことなのかもしれない。
 
        僕は、これからの日本語の課題というのは、二重複線言語で話し言葉に
        文体が育たないで、言文一致は不可能としても、言と文をどの方向で接
        近させていくかということではないかと思うんです。若い人たちが日常
        語で率直に書き出したのはいいことだ、ということになているわけです
        けれども、これは、要するに曖昧な語彙と貧弱な文体の話し言葉のほう
        に降りていくだけです。
        そうではなしに、それこそ最先端の地球物理学の話も含み込むような、
        ともかくもっと高い書き言葉のレベルに話し言葉が近づくほうがいい。
        (『二十一世紀の花鳥風月』中央公論社/1998.12.20発行/P44)


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