風のトポスノート495

 

言葉を語る権利


2003.8.25

 

         人間は繰り返し、「最高の問いに対する答えは、複雑であるべきではない。
        真理は非情に簡単に、だれにも直接にもたらさえるものでなくてはならない」
        と、強調します。その際、たとえば使徒ヨハネが高齢になって、キリスト教
        のエッセンスを「子らよ、愛しあえ」という言葉に要約したことを引き合い
        に出します。しかし、「子らよ、愛しあえ」という言葉によって、キリスト
        教の本質、あらゆる真理の本質を知った、という結論を出してはなりません。
         使徒ヨハネがこの言葉を語れたのは、いくつもの条件を経たからです。彼
        は長い生涯の終わり、九五歳になって、初めてこの言葉を語ったということ
        を、私たちは知っています。その生涯を生きたことによって、この言葉を語
        る権利を得たのです。だれから同じ言葉を発しても、使徒ヨハネが語るとき
        のような力を持たないでしょう。
         議論がなされていますが、彼は「ヨハネ福音書」「黙示録」「ヨハネ書簡」
        の筆者です。彼は一生のあいだ、「子らよ、愛しあえ」と言っていたのでは
        ありません。彼は人類の最も難解な作品の一つ「黙示録」を書きました。ま
        た、最も親密に、深く人間の心魂に入り込む作品の一つ「ヨハネ福音書」を
        書きました。彼は長い人生を経て、自らのなした行為をとおして、その言葉
        を語る権利を得たのです。
         だれかがヨハネのような人生を送り、ヨハネがなしたようなことを行なっ
        てから、「子らよ、愛しあえ」と言うなら、なにも異論はありません。わず
        かの言葉で非常に多くを意味することもできるし、何も意味できないことも
        あるということを、明らかにしなければなりません。
        (シュタイナー『イエスからキリストへ』アルテ/P111-112)
 
単純な言葉の何とむずかしいことか。
それは「一」がすべてを内包しているということにも似ている。
「一」から「二」が生まれ「三」が生まれる。
そして宇宙が展開していく。
「一」のなかには宇宙のあらゆることが含まれている。
それほどの「一」。
単純でありながら、そのなかにあらゆる複雑なものを含んでいる。
 
何かを分かろうとするために、人は「分ける」。
分けなければ分けられないもののことがわからないからだ。
ともすれば分けることを自己目的化して
分けられないもののことがわからなくなったりもするのだが、
その「分ける」というプロセスは
分けられないものの単純さのなかに内包されている。
 
いや、こうもいうことができるだろう。
「分ける」というプロセスを経ていない単純さと
そのプロセスを経ている単純さとがあって、
そのふたつは似て非なるものであると。
 
たとえば「愛」。
「愛」という言葉を語ることはたやすいが
それを生きたものとして語ることほど困難なことはない。
その違いを見分けることのかぎりなく難しい時代が今だといえるかもしれない。
 
いずれ、ひょっとしたら、ある言葉を語るために、
その言葉に応じた複雑なプロセスを経ているかどうかが
問われる時代がくるのかもしれない。
そんな時代が来たとき、
ぼくはいったいどんな言葉を語ることができるだろうか。
ほとんど失語状態になるのは目にみえている。
 
しかし、逆にいえば、そういう時代ではなく、
嘘であろうが勘違いであろうが大バカ者であろうが
言葉を使えてしまう時代であるからこそ、
その違いを見分けることのできる力を
育てることができるということかもしれない。


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