風のトポスノート494

 

死なないでいる理由


2003.8.14

 

         わたしがここにいる。物は物としてそこにある。わたしの眼の前に
        物があるということのほかに、そこには関係も何もない。ありふれた
        光景だといえば、たしかにありふれている。
        (…)
         物がわたしとは関係のないものとしてぽつんとそこにあるというこ
        と、その事実に疼くというのは、わたしたちが母から引き剥がされた
        ときの生存の原光景とでもいうべきものだった、と言えるかもしれな
        い。その事実は、じぶんがそれをともに見ていた母親から引き剥がさ
        れたこと、わたしが取り残された存在なのだということを思い起こさ
        せるからである。そういうダメージが喚びおこす感情と同質のものが、
        いまひとびとの、なんでもない、ありふれた物たちに囲まれた日常の
        なかに染みわたってきていると、ふと感じることがある。母から引き
        剥がされたときとはちがって、こんどは意味に渇いて。
         ここにいること、生きつづけていることに、理由が必要になった。
        すくなくともじぶんが納得できる理由が。そしてそれが見つからない
        ときには、ただ訳もなく生きているという感情しか生きるということ
        にたいして抱けない、そういう寂しさがひとりひとりの存在に滲みだ
        しているような。
        (鷲田清一『死なないでいる理由』小学館/P3-4)
 
ぼくはなぜ死なないでいるのだろう。
死ぬ理由がないからなのだろうか。
いやそんなことはないだろう。
死ぬ理由ならこれまでいくらでもあったはずだ。
死ぬ理由はそんなに大げさなものでなくてもいいだろう。
 
しかしこうしてまだ死なないでいるところをみれば、
こうして生きていることに何らかの意味づけをしているのだろう。
その意味づけがきわめて希薄になったとき
そういえば死ぬということが現実味を帯びてきたことがあった。
高校生の頃だ。
しかも死ぬための方法を考えているうちに
そのことのほうがずっと大変に思えてきたりもした。
要するに、面倒くさくなって死ぬことをやめたわけである。
 
死ぬ理由のある人がいる。
中高年の自殺というのは多くそうなのかもしれない。
死ぬ理由と生きていく理由を秤にかけてみると
死ぬ理由のほうがずっと重かったということなのだろう。
生きるという意味づけをする力がもっと強ければ、
もしくは、死ぬ理由のほうがずっと軽ければ、
死なずにいたのだろう。
 
江藤淳は1999年7月21日、自殺した。
その自殺する直前に刊行されたばかりの
『妻と私』という著書のあとがきにこうある。
 
         本年一月八日に退院してからしばらく、私は入院中に山積して
        いた家政の処理や、税金の申告に追われていた。
         それが一段落してホッとした二月初旬のある晩、突然何の前触
        れもなしに一種異様な感覚に襲われた。自分が意味もなく只存在
        している、という認識である。このままでいると気が狂うに違い
        ないと思い、とにかく書かなければ、と思った。
 
「自分が意味もなく只存在している」。
この言葉は、人が自分を意味づけすることで「死なないでいる」
ということを如実に表わしているように思える。
 
1986年5月ガンのために亡くなった精神医学者の岩井寛は、
その逆に、死ぬ直前まで「意味を実現する」ための営為を決してやめなかった。
松岡正剛は岩井寛から「死ぬ直前までの告白」の記録を依頼され、
(すでに口述以外の方法をとることができなくなっていた)
『生と死の境界線/[最後の自由]を生きる』(講談社)という著書に
その記録を残している。
その記録と平行して書かれた『森田療法』(講談社現代新書)の
最初にある松岡正剛の追悼の文章にこうある。
 
        今思い出すことは、先生が死の直前まで何度も強調しつづけた言
        葉、すなわち「生きることの自由とは、意味の実現に賭けること
        なんです」という言葉ばかりである。そこには、植物人間となっ
        てまで生きたくはない、それでは意味の実現にはならないという
        強烈なメッセージがひめられていた。五月に入って病状が日毎に
        悪化してからは、先生は意識の白濁にさえ意味を発見しようとし
        ていたのだ。(…)
        本書の「おわりに」は、「自分が可能な限り、目が見えなくても、
        耳が聞こえなくても、身体が動かなくても、“人間としての自由”
        を守り通してゆきたいのである」とむすばれている。先生はその
        とおりに最後まで自由を守られた。その自由は本書を口述筆記す
        ることによっても、まさしく鮮烈に獲得されたのだと、私はおも
        っている。
 
さて、最初の鷲田清一『死なないでいる理由からの引用に、
「母から引き剥がされた」という言葉があるが、
江藤淳は、物心つくかつかないうちに母を亡くしている。
そしてそのことが「母の崩壊」というテーマに少なからず影響しているらしい。
江藤淳にとっての生の意味づけは何だったのだろうか。
「自分が意味もなく只存在している」と感じる前には
そうでなかったのか、それともある種の喪失感を
ただ持ちこたえていただけだったのか。
 
しかし岩井寛のように「意味の実現に賭ける」といっても、
それは岩井寛にとっての「意味」であって、
その「意味」を外から「これが意味だ」と持ってくることはできない。
ゆえに、松岡正剛は、その記録に立ち会いながら少なからず混乱を示している。
広汎な事柄において非常な叡智を示している松岡正剛にしても、
そうした生ー死についての事柄になると途端にそういう在り方になるのだ。
 
ところで、ぼくはなぜ死なないでいるのだろうか。
その理由のひとつは、今でも、
死ぬ積極的な理由がないから、でもあるのだが、
もっと大きな理由は、シュタイナーの精神科学にほかならない。
それは生ー死という境界を包む広範囲なヴィジョンに満ちていて、
「自分が意味もなく只存在している」という感覚を
ほとんど感じる必要がなくなってくる。
しかもそれは宗教的な意味での救済とはまったく意味を異にしているのである。


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