風のトポスノート492

 

役に立たないもの


2003.7.27

 

        ほぼ日 役に立たないもののよさは、
            保坂さんから見て、どういうことですか?
 
        保坂  役に立つというだけでは
            なんでいけないかを、
            学校の先生も、教えられないんだよね。
            ・・・
            結局、役に立つものが大事というのは、
            理解できるものが大事という考えなんです。
            だけど、言えないものも含めて
            言おうとしない限り、
            言葉としての力をもたないように、
            わからないことも含めて
            わかろうとしないと、
            わかることにならないと思うんですよね。
 
        ほぼ日刊イトイ新聞「保坂和志さん追加インタビュー」
        「第6回 職業としての小説家」より
        http://www.1101.com/hosaka/2003-07-25.html
 
人は、なにかわからないもの、不安なものに直面すると、
それそのものに対応するものをさがして
それをなにかに置き換えてとりあえず認識しようとする。
 
人は理解できないものに耐えられないのである。
それは「世界」の成立を覆してしまいかねないのだから。
 
だから、理解できないものを何かの「権威」に委ねたりもする。
自分はわからなくていいのだ。
それが決して「わからないもの」ではなく、
どこかの偉い人にはわかるのだから、
「世界」はそのままでいい、というふうに安心したいのだ。
 
図式的な理解の仕方もそれと同じで、
何かを何かにきちんと対応させて
「世界」を組み立てておこうとする。
しかし、実際のところ「世界」は図式でできてはない。
AがXに写像的に対応するというふうには必ずしもできていない。
世界は関係性の網の目であって、
世界全体がある種のファクターには影響してくるのである。
そのひとつをたまたまとりだして見せるためにしか
図式は意味をもたないにもかかわらず、
それがさも最初にあるかのような印象を持ってしまったりする。
たとえば何かの薬があったとして、
それはこれこれこういう症状に対応する。
というふうな単一の対応関係だけで理解してしまう。
おそらく事態はそういうふうにはできていない。
 
「役に立つ」という価値観もそれと同じである。
世の中を生きるためには、
世の中で評価され得る「役に立つ」にそって
自分の「生」を成立させていかなければならないということになる。
じっさい、そうでないと生きていけないところもあるのだけれど、
やはり、圧倒的なわからなさ、理解のできなさ、
「役に立つ」というのはたまたまそうなのだ、
くらいに思っていないと、
「わかる」ということがひどく卑小なものになってしまう。
「無知の知」というのもそうなのだけれど、
なにかをわかろうとすると
それそのものをいかにわかっていないかにすぐに行き当たってしまう。
そのことを認めた上での「役に立つ」でないと
すぐにその「役に立つ」のほうからの
いわば独裁的なありようになってしまうことになる。
 
たとえば、ぼくという存在は、ぼくという存在であって、
「役に立つ」ために存在しているわけではない。
もし「役に立つ」ために存在しているのだとしたら、
「役に立」たないぼくが疎外されてしまうことになる。
そんな悲しい生き方は少なくともぼくにはできそうもない。
その悲しさは別としても、
そういう「役に立つ」ものだけで成立する「世界」は
なんと貧しいことだろうかと思う。


■「風のトポスノート401-500」に戻る
■「思想・哲学・宗教」メニューに戻る
■神秘学遊戯団ホームページに戻る