風のトポスノート491

 

変化に立ちどまること


2003.7.27.

 

        保坂 誤解されるかもしれないけど、
           ストーリー小説だけを好きな人たちは、
           その「おもしろい」というところを
           ごまかされているのを気づいてないんですよ。
           ・・・
           ストーリー重視の小説って、
           「自分がもうひとりいたらどうしよう?」
           「そのもうひとりの自分に会ったらどうなる?」
           そう思った瞬間の、いちばん大事な発想を
           忘れさせるように物語が進んでしまうんです。
 
           そういうおもしろさって、
           同時に不安でもあるんですよね。
           だけど、世の中に流通しやすいストーリーは、
           そういう、日常の合間に感じた不安を
           忘れさせてるように機能してしまう。
 
           ほんとは、
           その不安に立ちどまって、
           モロにその不安のある場所でおもしろい話を
           書いてもらいたいなぁと、
           読んでいると思うんですけど、
           そういう人って、すくないですね。
           漫画家の大島弓子は、ほんとに
           そういう不安の中で作品を書くところがスゴイ。
           あの人はほんとの天才だと思う。
 
        http://www.1101.com/hosaka/2003-07-24.html
        ほぼ日刊イトイ新聞「保坂和志さん追加インタビュー」
        「第4回 言えないからこそ言葉が生きる」より。
 
「ストーリー小説」はそれはそれとしておもしろいときもあるのだけれど、
多くの場合、読んだ後、まるで「消費のための消費」という感じがして、
むしろフラストレーションがたまってしまったりする。
テレビを見てアハハと笑ったりして長い時間をすごしたりして
その後に感じる不毛さにも似ているところがある。
ただお腹がすいたので空腹を満たすための食事と似ていて、
お腹がくちくなってしまうともうそれらは必要とされない。
 
もちろんそうでないものもあるんだけれど、
不毛に感じるものとそうでないものの違いというのは
いったい何なのだおるかと考えてみると、
何かが欠乏を満たすための道具になっているときと
それそのものがある種の認識の変化のためのもの、
そこに立ち止まらざるをえない重要な場になっているときとの
違いなのではないかと思える。
 
トイレにいきたっかたりお腹がすいたり喉が渇いたり…、
そういうことにはそれなりの意味があるんだけれど、
トイレにいけばそれでトイレにいきたいという「欲」が解消されてしまう
というのがふつうは「日常」的な在り方で、それで「日常」は機能していく。
しかしそれだけだと、「世界」はなんら深まっていかない。
自分はその「世界」の中に埋もれて自動人形化していく。
 
仏教では、「苦」(四苦八苦とか)を認識するということが示唆されるが、
その「苦」というのはまさにその「欲」ということで、
その「欲」というのはいったい何なのだろうか、
ということから始めなければ何も始まらない。
よく修行と称して、その「欲」を遠ざけるような発想もあったりするが、
じつのところ、それが「欲」そのものに立ち止まり、
それをじっと見てみることがなければ意味がないのかもしれない。
「欲」を認識することとそれを遠ざけることとでは大きな違いがあるのだ。
 
保坂和志のいう「ストーリー小説」というのは
その認識の深まりというか変容にあたるものを
ストーリーの契機として利用しながらも、
結局その部分をむしろ隠蔽することによって
ストーリーを展開させていくものなのだろう。
隠蔽するというのは、結局のところ、そこで語られる「世界」は
「日常」における認識となんら変わらないということである。
じっさい、「日常」における認識を常に意識させ続けるとすると、
「ストーリー」を読むほうの「苦」を喚起させてしまうことになり、
おそらく「お話し好き」にはそういう作業は耐えられなくなる。
 
シュタイナーのテキストなどを読んでいて
しばしばすごく眠くなったり、また異様なまでに覚醒させられたりするのは、
それがそういう在り方と対極にあるからなのだろう。
 
先日、少しカルマ論を読み直していたところに次のような箇所があった。
 
        みなさはま例外ですが、たいていの人間は精神的な労苦とはなにかを
        知りません。ほんとうの精神的労苦は、まず魂の活動を必要とします。
        世界が自分に作用するのに任せ、思考をはっきりと把握せずに経過さ
        せると、精神的な労苦はありません。疲れるということが、精神的に
        労苦したということではありません。疲れたのは精神的に労苦したか
        らだと空想してはなりません。読書しても疲れることがあります。し
        かし、読書するときに、その本に書いてある思想を自分に作用させる
        だkで、生産的ー活動的な読み方をしないなら、労苦したことになり
        ません。反対に、ほんとうに精神的に労苦する人、魂の内的な活動か
        ら労苦してその本を理解する人の場合、読書における精神的労苦が眠
        気を覚まします。しかし、疲れたら読書の途中で眠り込んでしまいま
        す。疲れるのは、精神的な労苦のしるしではありません。
        腕の筋肉を使ったときのように、脳が消耗したのを感じるのが、精神
        的に労苦したしるしです。通常の思考では、脳はそのように消耗しま
        せん。二度、三度、十度と繰り返すと頭痛がしてきます。疲れたり、
        眠くなったりするのではなく、その反対に、眠ることはできず、頭痛
        がしてきます。その頭痛を嫌なものと思ってはなりません。その頭痛
        は、頭を使った証拠なのです。
        (『歴史のなかのカルマ的関連』Pイザラ書房/141-142)
 
四苦八苦とかいう苦とかいうのも、
それを「世界が自分に作用するのに任せ」るのではなく、
それそのものに立ち止まってみることによって
その「世界」の生成するそのものの根底のところを見るための
契機をもつことができるのかもしれない。
そこにルーティーンとしての「日常」の裂け目が見えてきたりもする。
 
保坂和志の小説が不思議なのは、
それを読むのが「精神的労苦」には決してならないものの
(「ストーリー」はとくにないのでそれを求める人には「精神的労苦」になるが)
そこにたんたんと書かれている「日常」そのものに立ち止まることで
そこにある何かを垣間見せてくれることがある。
ストーリーがないだけに、ストーリーではなく、
今ここに立ち止まることで見えてくるものに注目させてくれる。
もちろん、四苦八苦は四苦八苦そのものとして解消はされないし
それを認識させようとかいうことでもとくにないのだけれど、
その四苦八苦の風景の前で立ち止まらせてくれる。
不安は不安として悲しみは悲しみとして。
それをストーリー展開によって何かに代替させるのではなく、
不安を不安のなかで、悲しみを悲しみのなかで見させてくれる。
 


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