風のトポスノート490

 

手前ヲ埒アケル


2003.7.16

 

	 梅岩の『語録』には、自分が幼年のころから周囲に嫌われていたことが述べられ
	ている。どうしても人に対して意地悪になってしまうらしい(こういう子供、けっ
	こう多い)。15歳のころそれが悲しくなり、それをなんとか改めようとして時間が
	かかったと述べられている(でも、なかなか改められない)。
	 この、「性格を変えたい」という思いがそのまま梅岩の思想の骨格にもなるとこ
	ろで、当時はこれを、孟子やヒュームではないが、まとめて「人性を見る」「人性
	に付き合う」といった。のちに梅岩はこれを「心ヲ知ル」、あるいはずばり「発明」
	とも言っている。自分自身を発明するということだ。
	 よく「性格は変えられない」などという。他のことは変えられても、性格だけは
	変わらない。そう、思われている。しかしおそらくこれはまったくの誤りで、そん
	なことはない(梅岩もそう確信したようだが、ぼくもずっとそう思ってきた)。た
	だ、その前にすることがある。そう、梅岩は考えた。
	 自分の性格の積層構造を知ることだ。雲母のように重なっている性格の地層をひ
	とつひとつ知る。それも、呉服屋でいろいろの老若男女と出会いながら、ゆっくり
	確かめていく(そのため呉服屋に20年を送ったのだろう)。そして、いったいどの
	層に自分のふだんの悪癖が反射しているかを突きとめる。そのうえで、その使い慣
	れてしまった性格層を別の性格層での反射に変えてみる。そういうことをした。
	 梅岩の「心学」とはまさにこのことで、それを梅岩は「手前ヲ埒アケル」と言っ
	た。
	 自分という性(さが)をつくっているのは、年代を追って重なってきた自分の地
	層のようなものである。性層とでもいうべきか。
	 その層を一枚ずつ手前に向かって剥がしていく。そうすると、そのどこかに卑し
	い性格層が見えてくる。そこでがっかりしていてはダメなのだ。そこをさらに埒を
	あけるように、進んでいく。そうするともっとナマな地層が見えてくる。そこを使
	うのだ。
	 だから、別の性格に変えるといっても、別種の新規な人格に飛び移ろうとか、変
	身しようというのではなく、自分の奥にひそむであろう純粋な性層に反映している
	性格を、前のほうに取り出せるかどうかということなのだ。
	 このように使い慣れた性格を剥がすこと、あるいは新たな性格を取り戻すことを、
	それが「手前の埒をあけていく」なのである。
 
	松岡正剛の千夜千冊 第八百七夜【0807】2003年07月01日 より
	石田梅岩『都鄙問答』1935 岩波文庫
	http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0807.html
 
三つ子の魂百まで、とかいわれ、
性格は変えることができないといわれやすい。
たしかにとても困難なことではある。
しかし困難ではあっても不可能ではないというのが
この石田梅岩『都鄙問答』のテーマであるらしい。
 
この松岡正剛の記事を読んで興味深く思い、
先日、少しだけ石田梅岩『都鄙問答』を繙いてみた。
これまで「心学」について実際のところよく知らなかったのだが、
こうした視点をもって読んでみると少しは近づきやすくなる。
 
石田梅岩のいう「手前ヲ埒アケル」。
「埒」というのは、物事の限界のこと。
「埒をあける」というのは物事をはかどらせる、順序づけるということ。
つまりは、限界を切り開いていくということなのだろう。
そして「手前」というのは、「自分という性」をつくっている「自分の地層」のようなもの。
その層を「一枚ずつ手前に向かって剥がしていく」。
そしてその奥にある「性」を「手前」に取りだしていく。
 
ところで、上記の説明でいえば、
ずっと深いところにある層を前のほうに取り出すということなのだけれど、
実際のところ、性格を変えるというのは、気質を変えるということ、
いわばエーテル体を変容させるということにほかならない。
エーテル体を意識的に変容させるためには自我が必要で、
しかもエーテル体を直接的に変えるのはむずかしいので、
まずは自我がアストラル体に働きかける必要がある。
そしてそのアストラル体からエーテル体に働きかける。
 
従って、まず必要なのは、自分の性格を意識化してみるということである。
そのためには自己意識、自分の思考や感情について意識することが不可欠になる。
仏教などでも八正道という反省行があったりするが、
それを自分の「心」について行なうというのが、
まさに「心学」ということなのかもしれない。
 
しかしやはり実際のところ、性格を変えるのはとても難しい。
自分の性格についてかなり意識化できたとしても、
それだけで性格が変えられるわけではない。
自分の性格を意識化できた上で、少なくとも自分をどのように変えたいかということが
はっきりしていないといけないだろうし、
その方向に是が非でも向かおうとする動機づけが不可欠になる。
 
これはおそらく、「思い」を現実化するという方向性とよく似ている。
ただ「こうしたい」と思っているだけでは何も現実化の方向には向かわない。
「思い」を「念い」にしてしかも持続させなければならず、
その上で、それを形にしていくための具体的な実践も必要になってくる。
 
これはどんなに小さなことでも同じで、
なにかをしようと思うならば、
それなりの持続した営為が必要になってくる。
たとえば、何かをまとめて理解しようと思っても、
10年単位のスパンが必要になってくるのだ。
自分を変容させることができるのは不可能ではないが、「手前ヲ埒アケル」には
それなりの発破作業が長期的持続的に必要になってくるということなのだ。
やれやれ。
 


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