風のトポスノート489

 

年に応じた価値


2003.6.22.

 

        矢沢 まず、10代や20代がいて、
           もう、チヤホヤされて、ちょっとやっぱり、
           「自分たちは価値があるのかもしれない」
           って錯覚をする。それはそれでオーケー。 
        糸井 オレたちも、小っちゃい時、思ってたよね。 
        矢沢 うん、思ってた。 
        糸井 「若さっていいな」(笑)って。 
        矢沢 うん。
           だけど、その流れのどこかで、
           「おまえらもイイね、最高!
            ……だけど、しょんべん臭いぞ」
           そう言いきるヤツらが、
           すこしずつ、出てきはじめて。
           その若くないヤツらはそいつらで
           「オレたちもけっこう、ハジけてるよ」
           みたいなのが出てくる、って言うか。
           40歳のヤツも自分たちでやる、
           50歳のヤツもそうなる、その上に、
           80歳ぐらいの、こんなになったジジイが、
           「おまえらには、まだ、わかるまい」
           って、けっこうバッチリ
           そっちの世界を持てるようになったら、
           すごくいいじゃん。理想かもしれないけど。 
 
        矢沢永吉の開けた新しいドア。
        「ほぼ日」特別インタビュー2003。
        2003-06-16-MON 
        第7回 「80歳も、けっこうハジけてるよ」
        http://www.1101.com/yazawa2003/index.html
 
生鮮食品はその名のとおり「生鮮」のうちに食べたほうがいいけれど、
熟成してはじめてその持ち味がでるものもある。
墨はつくられてから40〜50年ほど経たないといい色がでないという。
富岡鉄斎の書画は80歳がいいというし、
白川静さんは90歳を過ぎてもまだまだ現役で活躍している。
 
子どもには子どものときにしかできないことがあるし、
若さという価値はそれとして認める必要があるけれど、
それ以外の価値が見えなくなってくるとやはり貧しい。
年齢に応じてできることもある。
しかも人それぞれでさまざまな違いがある。
 
シュタイナーは、かつての時代においては、
年をとるということそれだけで叡智を重ねていくことができたが、
今ではそれができなくなっているという。
自分をいわば放置していても熟成したりはしないということだ。
だからこそ若さという価値を失ったらただの古びた存在になってしまうのだ。
時間はそのままではわたしたちを成長させてはくれない。
時間になにかを注ぎ込んでいくことが必要になる。
 
矢沢永吉もこのインタビュー(第4回目)で、
「なんで、日本の中年のおじさんって
 かっこわるい?
 なんか、かっこわるいんだよ。」
と語っている。
たしかに、おじさん、おばさんの多くはかっこわるいし、
なんだかいいところを見つけにくかったりする。
ただ若さを失った存在になってしまっている。
 
ちなみに、矢沢永吉の音楽とかあまり好きなほうじゃないけれど、
こうして糸井重里のインタビューで語っている矢沢永吉はなかなか魅力的だ。
とくに今回の「矢沢永吉の開けた新しいドア」というインタビューには
たびたびきらりと光る渋さが見えるところがあってかっこいい。
いい歳のとりかたをしているんだなとうらやましくなったりもする。
 
ぼくは悲しいことにまだまだ若いころ、
「自分たちは価値があるのかもしれない」という錯覚を持てないでいたし、
だからといってその後も「自分に価値があるのかもしれない」とかいう錯覚も
持てないままでいるのだけれど、
それでもまだ若いころよりは何かが見えてきたきもわずかながらしている。
少なくとも、若いころに戻りたいとかいう気持ちはまるでない。
今以上のアホになってたまるか、という気持ちのほうが強くある。
(そういう気持ちというのもまだツッパっているガキの意識なんだけれど)
 
ともあれ、重要なのはいまの自分はどうあるか、ということと
これからの自分をどうしたいのかということなのだろう。
そしてチェック項目になるのは、自分が
「なんか、かっこわるいんだよ。」
というような存在になってしまっていないかということだろうと思う。
 
 


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