風のトポスノート488

 

山本七平と「ニッポン問題」


2003.6.22.

 

         山本七平をどのように評価するかという作業が黙過されている。これはよくない。
         山本七平はイザヤ・ベンダサンの筆名で『日本人とユダヤ人』を世に問うて以来、
        一貫して問題作を書きつづけてきた。その論旨には山本七平学ともいうべきものが
        あったにもかかわらず、ほとんど軽視されている。在野の研究者だからといって、
        これはよくない。論旨の内容の検討を含めて議論されるべきだ。
         ぼくは二度ばかり山本さんと会って、これは話しにくい相手だと感じた。屈折し
        ているのではないだろうが、世間や世情というものをほとんど信用していない。
        そのくせ、山本七平の主題は日本社会のなかで世間や世情がどのように用意され、
        どのように形成されてきたのかということなのである。
         こういうところが山本七平を議論させにくくさせているのかもしれないが、だか
        らといって放っておかないほうがよい。丸山真男・橋川文三・松本健一とともに、
        そのホリゾントの中で評価されたほうがいい。
         ここでは『現人神(あらひとがみ)の創作者たち』を採り上げることにした。
         最初は日本通史を試みた『日本人とは何か』や、貞永式目が打ち出した道理の背
        景を探った『日本的革命の哲学』、最も“山七”らしいともいうべき『空気の研究』
        などにしようかと思ったのだが、本書のほうがより鮮明に日本人が抱える問題を提出
        していると思われるので、選んだ。山本の著書のなかでは最も難解で、論旨も不均衡
        な一書でもあるのだが、あえてそうした。
         本書の意図はいったい尊皇思想はどのように形成され、われわれにどのような影を
        落としているのかを研究することにある。
        (…)
         こうして、山本七平は「歴史の誤ちを糺す歴史観」と「ありうべき天皇像を求める
        歴史観」とが重なって尊皇思想が準備され、そこから現人神の原像が出てきたという
        ふうに、本書を結論づけたようだった。
         「ようだった」と書いたのは、本書は後半になって組み立てが崩れ、江戸の歴史家
        たちによる赤穂浪士論をめぐったままに閉じられてしまうからである。
         徳川時代の後半、朱子学や儒学の思想は伊藤仁斎と荻生徂徠の登場をもって大きく
        一新されていく。陽明学の登場もある。また、他方では荷田春満や賀茂真淵や本居宣
        長の登場によって「国学」が深化する。本書はこのような動向にはまったくふれず、
        あえて江戸前期の「尊皇思想の遺伝子」を探索してみたものになっている。
         このあとをどのように議論していくかといえば、いまのべた徂徠学や陽明学や国学
        を、以上の「正統性を探ってきた試み」の系譜のなかで捉えなおし、さらに幕末の会
        沢正志斎らの「国体」の提案とも結びつけて見直さなければならないところであろう。
         山本七平はそこまでの面倒を見なかったのだが、それがいまもって丸山真男と山本
        七平を両目で議論できるホリゾントを失わさせることになったのである。
         が、ぼくとしては冒頭で書いたように、そこをつなぐ研究が出てこないかぎり、わ
        れわれはいまもって何か全身で「日本の問題」を語り尽くした気になれないままにな
        ってしまうのではないか、と思うのだ。
        (松岡正剛『千夜千冊』 第七百九十六夜【0796】2003年06月16日
        山本七平『現人神の創作者たち』1982 文藝春秋
        http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya.html)
 
山本七平をいちばんはじめに読んだのは『空気の研究』だった。
(『日本人とユダヤ人』は高校生の頃読んだことがあるがそれは除いて)
そんなに昔のことではなく、ネットを始めた頃だから10年とちょっと前くらいだろうか。
 
ぼくはその頃まで「日本人とは何か」とかいうことにあまり興味が持てずにいたし、
そもそもなぜそういうことがテーマ化される必要があるのかよくわからずにいた。
極端な言い方をするなら、「そりゃあ、日本にいて日本語をしゃべってりゃ、
ほかの環境とは違うだろう」くらいだったろうか。
ある意味では、いまだにそういう感覚もあったりするのだけれど、
山本七平の著作を読むようになって以来、
自分の外からも内からも働いている何か言葉にしがたいもののことを
かなり意識的に考えはじめたように思う。
 
だから、ネットをはじめたその当時自分が書いているものを見直してみると、
「日本」についてについてかなりいろいろ書いていたりするのに気づく。
それらはけっこう恥ずかしいような内容のものもたくさんあって、
ときには「KAZEさんは右翼である」とかいうような(^^;)、
かなり勘違いされた受け取り方をされてしまったこともあったように記憶している。
それはぼくなりの「ひとりエポック授業」ゆえのものでもあって、
そのめずらしさゆえに、その関連で神道や儒教や陽明学やといったものを
まるでカオスのように取り込んでいたためでもあったのかもしれない。
 
それはおそらくシュタイナーを読むようになったこととも軌を一にしているといえる。
シュタイナーを読めば読むほど、そこに語られなかったであろう
この日本という磁場のことが気になってくるようになったように思う。
高橋巌さんが「ツラン」ということを言うようになったのも
ひょっとしたらそれと似た部分もあるのかもしれない。
そういえば、先日、巻上公一と田口ランディが企画した
「アルタイから歌手を呼んでのコンサート」について書いたことがあるが
その「アルタイ」あたりのことでもある。
そのシャーマニズムについて高橋巌さんは何かを直観されたのではないか。
 
さて、山本七平の著作はたとえばその著作集をまとまって読んだというのはなく、
文春文庫やPHP文庫などにある著作をおりにふれて読んでいた程度なのだけれど、
読むほどにその深い洞察には畏敬をもたざるをえなくなるようになってきている。
そして、読みたいと思いながらもおそらく絶版になっていたために
手に入りにくくなっていて読む機会を持てないでいた『現人神の創作者たち』を
先日古書店で偶然見つけて少しずつ読み進めるようになったのだけれど、
それにシンクロするようにして、この本を松岡正剛が『千夜千冊』でとりあげていた!
 
ちなみに、古書店ではまるでうち捨てられているように
100円均一のコーナーでこの『現人神の創作者たち』が置かれていた。
上記の引用の最初にある、「山本七平学ともいうべきものがあったにもかかわらず、
ほとんど軽視されている。」という思いとどこか通ずるような「軽視」のされ方である。
時代は、「山本七平」を忘却しようとしているのだろうか。
「日本の問題」を考えようとするときに、山本七平は避けて通れない。
たとえば、宮崎哲弥なども宮台真司との対談集
『ニッポン問題』(インフォバーン 2003.6.10.発行)の最後に
「ニッポン問題」を考えるための「ブックガイド」として
「日本教神学」の真髄!として『現人神の創作者たち』を挙げていたりする。
「ニッポン問題」を考えている人は山本七平を忘却しているのではないのだと思い、
少しは安心した次第。
 
ところで、上記引用にあるように、
「世間や世情というものをほとんど信用していない」
「そのくせ、山本七平の主題は日本社会のなかで世間や世情がどのように用意され、
どのように形成されてきたのかということなのである」
というのは言い得ている。
おそらくぼくが山本七平の著作に興味をもたざるをえないのも
その「世間や世情というものをほとんど信用していない」がゆえに
それらが「どのように用意されどのように形成されてきたのか」が
かなり気になっているからなのである。
それを山本七平ほど執拗に追っている人はなかなかいない。
 
山本七平さんはキリスト教徒でもある。
それゆえに日本の「世間や世情」について
意識的であらざるをえないというところもあるのだろう。
キリスト教的な視点(という単純なものではないだろうけど)ゆえに
可能になっているのかもしれないそれらの洞察ということにも興味があったりもする。
 
しかし、「ニッポン問題」というのはやっかいで、
できればそういう「問題」は避けたいものなのだけれど、
避けられない以上、自分なりに納得のいく視点を持ちたいものだと思っている。
 


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