風のトポスノート485

 

批評と福田和也


2003.6.9.

 

福田和也の「批評」を読んでいる。
 
そもそも「批評」なるものをぼくは好きになれないでいる。
それはかつて小林秀雄の「批評」を読んで以来のものでもあるし、
その後のさまざまな「批評」と称するものを読むことによって
そこにある違和感を高めてきてもいた。
 
それは、「批評」がなぜ「批評」と呼ばれなければならないのか
よくわからないせいでもでもあるかもしれず、
ひょっとしてそれが別の名前をもって呼ばれていたのだとしたら
また印象を異にしていたのかもしれない。
それでもときに「批評」というジャンルに属するものを読むこともあり、
そこになにがしかのものを感じ取らないわけでもなかった。
 
ところで、福田和也の「批評」、
『日本人の目玉』(新潮社)を読み、それにこりずに
福田和也の『甘美な人生』(ちくま学芸文庫)も読んでいたりする。
 
「批評」がよくわからないものであるのは変わらないが、
それでも福田和也の「批評」へのこだわりだけは伝わってくる。
そしてぼくなりの視線でそれをとらえようとするときに、
なぜ福田和也がいわば「右翼」としての思想的立場を
さまざまな場所で公言するのかがなんとなく伝わってくるところがあった。
そしてそのことでなおのこと、そうした「思想的立場」に対して
ぼくの違和感を新たにすることができたように思ったりもした。
 
福田和也が「批評」をどのように位置づけているか、
というか、それをどのようにとらえようとしているのかを見てみることにする。
 
         私の生には何の意味もない。私はいつ殺されても仕方がない。実際いつ死ぬか
        解らない。人を殺すかもしれないし、殺すだろう。にもかかわらず私は生きるこ
        とに、あるいは己に執着し、そこに何かの意味を、温かさを、美しさを見たと思
        いこむ。そしてもしかしたら、「尸の郊原」の上に、かりそめにもそのような物
        がありえたかもしれない。その幻を、実体を、私は言葉と呼び、サンマイの上で
        のその笑いを、私は仮に批評と名づける。
        (『甘美な人生』P.013)
 
         此の世の、如何なる酸鼻であろうと許容する覚悟がなければ、風狂の徒は「四
        事を友」とする事が出来ない。あらゆる醜い想念や憎悪をも、厭わず我が心の動
        きとして眺めなければ、「見るところ花にあらずということなし。思ふところ月
        にあらずといふことなし」と断言できない。愚劣で、無意味な生存を肯定するか
        らこそ、「野ざらし」に決着する運命を、甘美な人生として味わう。
        (『甘美な人生』P.214)
 
福田和也は「悪」を拒否しない。
拒否しないどころか、それを内面化する自覚を唱う。
そのことではじめてみえてくる「美」があるという。
 
少なくともみずからの内なる悪を見ることのできない者には
その「批評」を読むことさえできないだろうし、
そもそもその「批評」はまったく意味を持ち得ないだろう。
 
そういう意味では、「批評」は
みずからを激しく見るための「目玉」そのものだということもできよう。
しかしその「目玉」は「はい、自分を見つめてみよう!」とかいうような
ワークショップのノリのような在り方では決して獲得のできないものだろう。
そこには情け容赦のない視線が少なくとも前提とされるだろうし、
その上で、みずからの「目玉」を鍛え上げるための
さまざまな角度からの「目玉」を検討していく必要があるのだと思う。
 
しかし、福田和也の前提とする「何の意味もない」「生」、
それゆえに「甘美な人生」を味わうと言い放ってしまうことによって、
逆にそこにさまざまな強固な「虚構」が闘われてしまうことになるのではないか。
それゆえにこそ積極的に虚構される「物語」が必要とされてしまうのだろう。
少しだけ思うのだけれど、福田和也の前提には決してないであろう
精神科学的な前提を持ち込んだとき、
その「物語」はその力をなおも残すことができるのだろうか。
 
少なくとも暴走族が「改心」して、ボランティアに生きがいを見出したり、
幸せな家庭を夢見たりするような単純なことにはまさかならないだろうが、
「愚劣で、無意味な生存」がその地の底から反転し変容したときに、
いったい何が起こるのかが見てみたい、とか思ったりもする。
 


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