岩井 アメリカ社会は 資本主義と非常にマッチしていて、 わたしが批判しているような経済学者たちは、 たしかに荒唐無稽なことをやっているんですが、 それなりの意味がある。 彼らは、人間の合理性を とことんまで追及した理論を作り、 しかも、たとえばデリバティブの市場のように、 現実に経済の仕組みを、 作りあげてしまうんですよ。 徹底的な理論を作り、それを現実に試す。 常に、実験をしているんです。 しかも、優秀な人たちが多い。 わたしは、主流派の経済学を いろいろ批判していますけど、 その主流派の経済学は、 「人間が、もしも合理的な存在で、 貨幣なんかなかったら、何が可能か?」 ということを 徹底して考えてくれているわけですから。 糸井 そうなんですよね。 岩井 「倫理がなくてどこまで社会が可能か」とか。 糸井 『カラマーゾフの兄弟』で言う大審問官を、 アメリカは、自分のところでやってるんですよね。 岩井 まさに、やってるんですよ。 (岩井克人×糸井重里対談篇 続・会社はこれからどうなるのか? 第5回 主流派の体力。 http://www.1101.com/iwai/index.html) アメリカは世界を「アメリカ」にしようとしている。 それがグローバリズムということにほかならないのだろう。 そしてそのことでいわゆる「ナショナリズム」が 世界中で活性化することにもなる。 グローバリズムは「力」と「金」の論理であり、 ある意味で合理主義の徹底ということであるが、 その合理主義の徹底が「ナショナリズム」という 合理主義とは対極にあるものを喚起させることになる。 歴史はいつも「実験」しているのかもしれない。 「倫理がなくてどこまで社会が可能か」というのもそのひとつなのだろう。 どんな条件のもとではいったいなにが成立可能なのか。 また何が成立を困難にするのか。 王制のもとでは、貴族制のもとでは何が可能か。 独裁制のもとでは何が可能か。 民主主義のもとでは何が可能か。 宗教を中心に置いたときには何が可能か。 実質的に宗教を排したときには何か可能か。 そして何が成立するのが困難になるのか。 経済的な条件、宗教的な条件、精神的な条件、制度的な条件、 合理を徹底化した条件、非合理なまでの状況による条件…、 さまざまな条件のもとで、いったい何が起こるのか。 途中で条件が転換したときには何が起こるのか。 ひとりひとりの人間においてもそれらの実験が 夥しく行なわれているのだということもできる。 そういう視点で自分という存在を見てみたときに、 自分におけるさまざまな条件とその可能性ということにおいて なにがしか見えてくるところがあるのかもしれない。 自分を条件づけているさまざまなもの。 疑ってもみなかった条件、意識してはいるが逃れがたい条件、 自分から望んで得ようとした、もしくは得た条件。 そして自分が自分に対して実験するとしたら いったいどのような条件を課し、そこから何を得ようとするのかという視点。 ところで自分はいったい今何を得ようとしているのだろうか。 |
■「風のトポスノート401-500」に戻る ■「思想・哲学・宗教」メニューに戻る ■神秘学遊戯団ホームページに戻る |