現実の戦況ともあいまって、「アメリカひとり勝ち論」を乗り越えるヴィジョン を示すのはなかなかむずかしい。また、そのアメリカの傘下にいる日本の中でじわ じわと広がるナショナリズムに歯止めをかけるのも、なかなかむずかしい、と言わ ざるをえない。旧来の「左」も「右」も、アメリカ支持でも反米でも、結局のとこ ろ「日本が自立して強い国になるしか道はない」という大きな意味でのナショナリ ズムの潮流に巻き込まれる以外、道を見出しにくい。そういう状態になっているの だ。 しかし、対談を終えて私は心を決めた。 私はあえて、もう少しだけ、「アメリカに賛同するにしても抵抗するにしても、 日本人は憲法を改正して軍備を整えて心をひとつにしてナショナリズムの道を歩 むしかない、それが現実というものだ」という意見に屈服することなく、種々雑 多の人たち、強い人や弱い人、すぐれた人やダメな人がうごめく「ゆるい社会」 を作る道を模索し続けることにしよう。「勝ち組」になる以外の“抜け道”が、 どこかまだあるかもしれないではないか。 (香山リカ「序 これは「ぷちナショナリズム」なのか」 香山リカ+福田和也 『「愛国」問答』中公新書ラクレ 2003.5.10発行/P24) 元来、左翼の貧乏くささが嫌いで、右翼になったようなものだった。 三島由紀夫とドリュ・ラ・ロッシュ。保田与重郎とエズラ・パウンド。 才気にあふれ、洗練と豪奢を友にし、余裕と成熟をもてあまして酔狂におよび、 その果てに本気の賭けを見出してきた文人たちが、私にとっての右の基本的なイ メージだった。 そういった思いのもとで、私は書き、語ってきたのだが、いつのまにか、右と 呼ばれる陣営の人々がひどく貧相になり、浅く、乾いた、埃むさいものになって しまったなぁ、と感じるようになった。 香山さんと、是非話をしてみたいと思ったのは、まずその実感があったからだ。 (…) いずれにしろそのテーマである、ナショナリズムも含めて、本書を貧しさにつ いての対話だと思う。そうならざるをえないと思う。 (同上/福田和也「あとがき」P189) 香山リカと福田和也の面白い対談を読んだ。 怪物化してしまったアメリカの前で私たちはどうすればよいのか、 という話をめぐる内容ではあるのだが、 福田和也の「あとがき」にあるように、 たしかにこうした話は「貧しさ」についての話にならざるをえないところがある。 もちろんその「貧しさ」は「貧乏」という話ではないし、 まして「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」 ということでもない。 しかしここに語られているような「貧しさ」に、 私たちはまずもって気づかないわけにはいかない。 ある意味では香山リカのいう「ぷちナショナリズム」は その「貧しさ」に気づきさえしないがゆえのものなのかもしれないのだから。 「貧しさに負けた いいえ世間に負けた〜」 そういえば「昭和枯れススキ」は「昭和」の流行歌だった。 今や「平成」も15年を経過し、21世紀もすでに始まっている時代。 その時代の閉塞した「貧しさ」の前にいながら、その「貧しさ」に気づかず、 「世間」に流されて「ぷちナショナリズム」を泳いでいるような状態だけは避けたいものだ。 福田和也が「貧乏くささが嫌い」で、 「甘美な人生」をこそ肯定したいというのはよくわかるし、 その書かれたものにしても、いまどきでは珍しいほどの言葉の力をもっている。 しかしその取り巻く状況はますます「貧乏くさ」くなってきていて、 「左」とか「右」とかいうことを超えている。 世に叫ばれる言葉たちのあまりの「貧乏くささ」は目を覆わんばかりである。 その「貧しさ」は、シュタイナーノート「贈与」でもふれたように、 「自由な精神」が転倒させられた貧しさにほかならないのだろう。 しかし困難なのは、福田和也のようなアプローチが 果たして「自由な精神」においてどれほどの有効性を持ち得るかということだろう。 どこかから虚構にせよ「大きな物語」を背景にもってこざるをえない方向性は いずれどこかで新たな「貧しさ」にさらされはしないだろうか。 それよりもむしろ、香山リカのいうような 「種々雑多の人たち、強い人や弱い人、すぐれた人やダメな人がうごめく 「ゆるい社会」を作る道」のほうから生まれてくるもののほうに ぼくはどちらかといえば注目していきたいと思っていたりする。 とはいえ、むしろある意味で、絶望の度合いが高いがゆえに その独自の道を模索しているであろう福田和也のこれからにも 注目してみたいとは思っているのだけれど。 |
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