美を求めれば美を得ず、美を求めざれば、美を得る。(白隠禅師師著語) まさにそうなのだ。併し私には作為がある。…どうすればよいのか、やればやるほど 空々しい。糸が輝かない。いきいきしない。もう駄目かもしれない。現代の人間にそれ は不可能か、と思った時、無作為を逆に作為に徹底するしかないと思った。美しいもの をつくるとか、美を求めないとかいうことも忘れて、私はひたすら杼を動かした。する と何か胸の中がふっと開けて、するすると私は糸を繰り出していた。濃紺の夜空に無数 の銀白色の線が飛び交い、霞が流れ、霧が立った。織はリズムを得て、音色を呼びこん でゆく。作為も無作為もない。ものが生まれてくる。ほとんど一気に織り上げた。… 「秋霞」と名付けた。今思いかえしてみても、あれほど自分と作品が接近したことは なかったかもしれない。… 当時民芸展に出品していた私は、柳先生より、この着物が民芸の道からはずれたこと、 従ってあなたはもう民芸作家ではないという、半ば破門のような宣告を受けた。私は柳 先生の、「工芸の道」の精神より出発し、唯一の師と仰ぐ方からそのような言葉を受け たのだったから、衝撃は大きかった。前途まっ暗な気持ちだった。併し、翻然と胸に湧 くのは、もはや民芸と呼ばれる領域の無作為にもどることはできないということだった。 柳先生は、そのとき「名なきものの仕事」ということをいわれた。私はあの時の、作為 と無作為の内的葛藤を思い起こした。自覚することは避けられない。もう意識なしに仕 事はできないのだ。むしろそれが希薄なことこそ悩むべきではないか。私はあのボロ織 を梃子にして、新しい織物を、抽象的美意識を導入したのではないだろうか。勿論当時、 そんなおこがましい考えを持ったわけではない。 (志村ふくみ『ちよう、はたり』筑摩書房 2003.3.25発行/P29-31) 百足が自分の足を意識してしまい歩けなくなる。 「もうおまえはもとの百足には戻れない。 無意識がゆえに美しい、流れるような足運びはできないのだ。」 これからは一本一本の足を意識し、ぎくしゃくと歩いていくしかない。 現代は意識魂の時代だとシュタイナーはいう。 かつてもっていた叡智をある意味で捨て去り、 その力を別の力へと変容させていかなければならない。 とかげの尻尾を再生させるような生命力を失うことで、思考の力が育っていく。 かつてあった古代的なシャーマニスティックな力。 その力は失われなければならなかった。 その力をそのまま現代に持ち来たらせないために、 ある意味で、あの粗暴な古代のキリスト教徒たちが 神々たちを葬り去ろうときわめて暴力的な力に訴えもしたのだろうが、 その力は別の姿で現代的な変容を必要としているのだろう。 無意識の、無作為の、 それゆえの美は美しいかもしれない。 しかしそれは芸術ではない。 芸術がartという人工のものであるということの意味は重く深い。 芸術が芸術であるための作為というプロセス。 作為を排除するのではなく、作為をも取り込んだプロセス…。 ある意味で、人間は神々から破門されてしまった存在なのかもしれない。 堕天使にもつながる存在。 しかし破門ゆえにしか可能とならないものがあるのではないか。 たとえば集合的な形でそのなかで自足しているのではなく、 そこからでることでしか、その「芸術」は生まれてこないのではないだろうか。 |
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