風のトポスノート475

 

トライブ


2003.5.11

 

         東の状況認識の前提にあるのは、世界がタコツボのように分断され、そして
        人々がそれぞれをきわめて微少な「趣味の共同体」に閉塞しているという風景
        である。たしかに「おたく」やサブカルと一口にいったところで、その内部は
        呆れ果てるほどに寸断されている。同じガレージのあいだでもBOMEのファ
        ンと竹谷隆之のファンのあいだでのコミュニケーションは絶望的に困難だろう
        し、コミュニケーションを断つことで、彼らは互いに自分たちの「トライブ」
        を死守してもいる。あまりに情報や価値の細部に入り込みすぎて、その瑣末な
        情報体系が彼らの「全体」と化しているから、その差異なり障壁はとてつもな
        く超え難いように思えるのだろう。
         ぼくが若い<おたく>と関わってきて、「こいつらめんどうくせーな」と心
        底思うのは、じつはその点にあって、彼らが彼らの自己像を維持するために拘
        泥している細やかな差異なんて、「おじちゃんみたいに<おたく>そのものが
        発生した場所で生きていた人間から見ると、みんな同じようなもんなんだよ」
        とついいいたくなる(ぼくはそれを近ごろでは「神が宿らない細部もある」と
        いう言い方をしている)。そういう大雑把さに立脚してしまったとき、東がい
        う「トライブ」のなかに文化現象なり特定の作家や作品なりを落とし込み、そ
        こでの解釈の差異を立証していくという批評そのものが、はたしてどれほど意
        味があるのだろうかとやはり思えてきてしまう。
        (…)
         そこにはぼくのなかに、東や若いおたくたちが願うような「トライブ」の水
        位での理解のし合いはどうでもいい、その水準ではべつにコミュニケーション
        し合わなくてもいい、という感情があるからかもしれない。それはインターネ
        ットにおける匿名のコミュニケーションにも感じることだけど、なぜ彼らは心
        の襞にまで分け入るような全面的なコミュニケーションを求めるのか、ぼくに
        はやはり不思議なのだ。「トライブ」と東がいう小さな趣味の共同体への欲望
        も、つまりは全面的に理解し合えることへの欲望がその後にある気がして、け
        れどもそこで、どうしてきっぱりと断念することができないのか、ともぼくな
        どは思う。
         もしかすると他人にわかってもらう必要のない領域を抱えて生きることに、
        どうも人はあまりに耐えられなくなっているんじゃないだろうか。…でもべ
        つに「ひとり」でいいじゃないか、誰にも郵便なんか書かなくても生きてい
        けるじゃないか、という領域をどこかで抱えていないと、ほんとうはしんど
        いんじゃないか、と他人ごとながら思ったりもする。
        (大塚英志「サブカルチャーであること」
         大塚英志『戦後民主主義のリハビリテーション』
         角川書店 平成13年7月15日発行 より/P66-71)
 
重要な「差異」(「神が宿る細部」)と
瑣末な「差異」(「神が宿らない細部」)との違いを意識できていないと、
瑣末な「差異」どうしのバトルのなかでしか何も見えなくなってしまうところがある。
いわゆる「内部抗争」のようなものも、「全面的に理解し合えることへの欲望」の前で
おそらくは瑣末な「差異」が許し難くなってくることによって起こる。
 
「ひとり」でいることに耐えられないがゆえに、
「他人」に全面的にわかってもらおうとして
小さな「トライブ」(部族)のなかでやっていこうとする。
それは「ひとり」なのではなくて小さな集団である。
だからその「トライブ」においてはすべてが理解しあえていないといけない。
もしそこに小さな差異があればまたそれが別の「トライブ」となっていく。
だれにもわかってもらえなくてもいい、というある種の諦念、断念ではなく、
ぜんぶわかってほしいという欲望。
 
穴をあるいは井戸を掘っていって
それが水脈にぶつかるというのではなく、
どんな水脈をも拒絶することになってしまう「トライブ」。
あるいは、特定の食物しか受け入れられなくなってしまうような
拒食症もしくは食物アレルギー。
 
これは、ある種の宗教団体にもいえることなのかもしれない。
「ひとり」でいることはできず集団にいることしかできず、
しかもその集団内の細部だけを全体として生きているあり方。
そして重要な「差異」からむしろどんどん遠ざかっていく。
 
しかし、「ひとり」でいることに耐えられず、
重要な「差異」からどんどん遠ざかっていくということでいえば、
ごくふつうの人たちでもそうなのではないかとも思える。
この場合は、自分の井戸を掘っていきながら
重要な「差異」(「神が宿る細部」)を見出していく方向性ではなく、
人の井戸のほうに出かけていき集団のなかで安心しようとする方向性。
 
その場合ともすれば、その集団化した人たちは、
だれも井戸を掘ろうとなどしてなくて
ただ砂漠のなかをいっしょにうろついているようなことになってしまう。
いつまでたっても砂漠のままで水脈がでてくることはない…。
たとえだれかが自分の井戸を掘っていたとしても、
その近くにいたとしてもそれは別の人の井戸にはならない。
自分の井戸は自分で掘る以外方法はなく、
その自分の井戸を掘り水脈を見つけ、
その水脈によってリンクしていくことしかできないのだから。
 


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