風のトポスノート477

 

あのころの未来


2003.5.9

 

スガシカオ+川村結花の「夜空ノムコウ」の
「あのころの未来に ぼくらは立っているのかな」というフレーズが
浮かび上がってくることがある。
ある過去の時点「あのころ」と
そのときの自分の「未来」である「いまここ」とが交錯する。
 
その「あのころの未来」をテーマにして
最相葉月が「星新一の預言」(副題)を本にしている。
「預言」といっても星新一のあのショートSFに描かれた未来のことで、
その頃の「未来」としての現在と比べているわけである。
 
星新一は中学生の一時期はまっていたことがある。
そのSFは真鍋博のイラストのイメージとあわせて
「あのころ」の自分を逆照射してくれたりもする。
ロックやPOPSの洗礼を受けていた頃でもある。
万博が開催された頃でもあり、
その頃の未来はもうすこしどこか今とは違って見えていた。
少なくともまだぼくは比較的単純な科学少年で、
自分がひょっとしたら科学者になるかもしれないとか思っていたりもした。
 
「あのころの未来」にぼくはたしかにいる。
「あのころ」は想像もできなかったほどの年月を経て今のぼくがいる。
まさか自分がいわゆる「世紀末」を経て、
21世紀に生きているなどとは想像さえしていなかった。
ましてアトムが生まれた年に生きているなどとは。
そういえば、アトムもまた「あのころの未来」なのだ。
 
ぼくの立っている「いまここ」からまた年月が経ち
その頃また「あのころの未来に ぼくらは立っているのかな」と、
「いまここ」が「あのころ」になっているときにも
ぼくはまだ生きているのかもしれないが、
その二重に交錯してくる「いまここ」を意識すると
列車の窓ガラスに外の景色といっしょに浮かんで映っている
自分の顔を見るような感じになる。
 
「夜空ノムコウ」は、スガシカオのSugarlessと
川村結花のaround the PIANOに収められているVerが気に入っているが、
どちらも自分をそういう二重写しなかに置いてくれる。
というか、未来の自分が今の自分をノスタルジックに見ているような
そんな気にさせてしまうような不思議な力をもっている。
ぼくは今いったいどこに立っているだろう、と。
 
今や未来をかつてのような「あのころの未来」のようには
なかなか見ることができないのが普通の見方なのかもしれない。
かつては想像もしにくかった技術などが生活のなかで
現実に使われるようになっているところもあるというのに。
「あのころ」はまだビデオさえなく、
ようやくカセットテープが使われ始めていたころ。
携帯電話やパソコンなどはまさにSFでしかなかったころだったのだ。
それなのに、「未来」はかなり暗い未来のイメージとして
いまの私たちの前には現われていることのほうが多いように思う。
 
おそらくそういう「未来」を変えていくためにこそ、
20世紀の初頭にルドルフ・シュタイナーという人物が現われて、
精神科学という潮流を起こそうとした。
 
「あのころの未来に ぼくらは立っているのかな」
「全てが思うほど うまくはいかないみたいだ」
「夜空のむこうには もう明日がまっている」
のだろうか・・・。
 


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