大塚英志が「文学方面」でやろうとしていることは、簡単にいうなら、 「文学」をこんなものにしてしまったのは誰かという問いを出してみる ことだ。あるいは「文学」はどうしてこんなものになってしまったのか という問いを出してみることだ。それから、その問いに自ら答えてみよ うとすることだ。いうまでもなく、それは「文学方面」の人たちこそが 全力で取り組まねばならないことだ。だが、その方面の人たちは、もっ とも緊急であるべきその問いから、zっと逃れ続けてきたのである。 もう一つ重要なことは、ぼくは大塚英志が「文学」について書いたも のを読みながらいつも痛切に思うことなのだけれど、自らを「文学方面」 ではなく、その外にいる者であると断じる著者以上に、「文学」への愛 情とこだわりを語り続ける者が、肝心の「文学方面」に見当たらないと いうことだ。それを逆説と呼んですましてしまうことはぼくにはできな い。「文学」が「文学方面」においてさえ、もうほとんど愛されてはい ないかもしれないということ、それは「文学」の権威が失墜したとか、 人々から見放されつつあるということより、ずっと悲惨なことなのだ。 (高橋源一郎「解説 もう一つの物語」 大塚英志『物語の体操』朝日文庫2003.4.30発行より) 大塚英志が『物語の体操』の最初のところで述べているように、 この『物語の体操/みるみる小説が書ける6つのレッスン』は、 むしろそうしたレッスンでは書けない領域を探すためのものであるといえる。 <秘儀>の領域は小説にどれほど残されているのか、あるいは全く残ら ないのか、そのことを確かめてみようと考えています。 ・・・ 小説<秘儀>の領域と学習可能な領域に腑分けしていく作業は結果とし て小説を書くという行為を徹底してマニュアル化していくことにもなり ます。 (P10) マニュアル化できないものを見出すために、 マニュアル化できるものをことごとくマニュアル化してみること。 だれにでもできることをだれにでもできることとすること。 そしてだれにでもできることを<秘儀>化しないこと。 ほんとうはマニュアル化できるものなのに それを開示しないことで特権化などしないこと。 そうすることで、マニュアル化できないものが 圧倒的なかたちで現前してくることにもなる。 つまり、マニュアル化できるものというのは ほんのかぎられたものでしかないし、 できたと思っていても思いこみでしかないこともたくさんある。 もちろん、科学技術にしてもそうだけれど、 ある種の「標準化」「規格化」を行なうことで 実用可能になってくるものはたくさんあって、 それはそれで結構なことなのだけれど、 「文学」でそれをしたところで、 早い話、面白くもなんともないと思うのだ。 音楽にしても、記号化されすぎたものは あまりのつまらなさにうんざりしてしまうことになる。 とはいえ、カラオケのように記号をなぞることを アトラクションにしてしまうという方向性はあるけれど、 それはもはや音楽といえるものではないことが多い。 人が真に魂をゆすぶられもするものは、 記号を超えたものがそこにあるからである。 ある人の「声」を聞くことで魂を揺すぶられることがあるのも、 それが標準化できる記号ではないところでそうなのだ。 それは私のなかの記号処理を超えて、 するりと、あるいは、ずんずんと、 私のなかの何か直接的なところに分け入ってくる。 つまり、「届く」のだ。 |
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