風のトポスノート475

 

「ある」という謎


2003.4.14

 

         生きているということ、自分がいるということの謎は、そのまま、宇宙があるということ
        の謎だ。謎は、それが、「ある」ということだ。「ない」のではなくて、「ある」というこ
        とだ。最も当たり前なことこそが、最も驚くべき謎なんだ。そのことに気がついた君は、ま
        ったく当たり前に思っていた日常、君が生きている毎日の光景が、少し違って見えるように
        なってきているのはないだろうか。
        (…)
         まだまだ数は少ないけれども、人類はこれから、この謎、「ある」ということの謎に、少
        しずつ目覚めてゆくことになるはずだ。今世紀は、人類が、存在の謎に目覚める世紀だ。考
        えることを選んだ君は、だから、存在の謎の探究者、その先駆者になるというわけだ。これ
        は大変なことだけれども、今や君は、これはせざるを得ないことだともわかるだろう。人類
        のためじゃない。自分のためだ。なぜだか存在している自分のために、考えざるを得ないん
        だ。そうやって、考えざるを得なくて考えてゆくうちに、自分とは人類のことだったと必ず
        気がつくわけだから、人類のために考えるといっても、まあ同じことではあるけれどね。
         考えるということには果てがない。謎に果てがないからだ。謎に果てがあったら、それは
        謎ではなくなってしまうのだから。謎というものには果てがないんだ。でも、謎の入口はい
        たるところにある。「ある」ということの当たり前に驚くなら、「ある」ことのすべてが謎
        の入口になっているんだ。
        (池田晶子『14歳からの哲学 /考えるための教科書』
         トランスビュー 2003.3.20発行/P199-)
 
自分はただのDNAであって、
死んだら自分はなくなってしまうと思い込んでいる人にしても、
今この自分がここに「いる」ということだけはたしかだ。
「いない」ということはできない。
たとえ、すべては夢でしかないとしても、その夢はある。
 
こうして自分がいるということは
だからそのまま世界があるということでもある。
 
そしてその、自分がいて、世界があるということが、
いったいどこからやってきて、どこに向かおうとしているのか。
そう考えはじめざるをえないことになる。
 
かつてソクラテスは無知の知からその哲学を始めた。
この『14歳からの哲学』でも、池田晶子はそのことに気づくことが
どんなに大切なことかを語る。
 
         わからないとわかるからこそ、考えるんだ。そうじゃないか。考えたってわからないと考
        えないのは、わかっていないということをわかっていないからでしかない。そうじゃないか。
        わからないとわかっていることを考えるのだから、それは答えを求めて考えることじゃない。
        もしも君が、これからの人生で、本当の勉強、本当の学問をしたいと志すなら、このことだ
        けはわかっておくのがいい。考えるということは、答えを求めることじゃないんだ。考える
        ということは、答えがないということを知って、人が問いそのものと化すということなんだ。
        どうしてそうなると君は思う。
         謎が存在するからだ。謎が謎として存在するから、人は考える。考え続けることになるん
        だ。だって、謎に答えがあったら、それは謎ではないじゃないか。
        (P196-197)
 
だから、自分が「いる」、世界が「ある」ということにも、
試験の答えのような「答え」はない。
でも、なぜ自分がいて、世界があるのだろうか。
その問いをもてるかどうかということは、
そのことに驚くことができるかどうかということは、
とても大事なことじゃないかと思う。
その驚きがあるかないかということは、
すべてに関わってくる問いだからだ。
 
シュタイナーの『自由の哲学』も、
その問いとの関係でみてみると少しわかりやすくなるかもしれない。
『自由の哲学』では、「思考」の一元論ということで
「思考」だけに素朴実在論が可能だといっているのだけれど、
そのときにいちばん「謎」としてあらわれてくるのが
その「思考」っていったい何だろうということじゃないだろうか。
「考える」ということ。
 
この「考える」ということは
ただ「思う」ということと混同されやすいのだけれど、
それはちょっと違う。
たとえば「ぼくはこう思う」ということについて「考える」というように。
 
だから、「思考」、「考える」ということは
そのことそのものが「ある」ということが「謎」なのだ。
一元論というように、そこからすべてがはじまっていく。
逆にいえば、考えないとなにもはじまることができない。
果てしない謎に向かって航海をはじめることができていないということになる。
 
おもしろいことに、とてもソクラテス的な池田晶子は、
「存在の謎」の出発点についてはとても深く、
しかもこんなにわかりやすい表現をしているのだけれど、
肝心の「存在の謎」を展開させていないように見えてしまう。
とても根源的なものを常に問い続けているのもあって、
本人はおそらくそう思ってはいないのかもしれないのだけれど、
たとえばそこにはアリストテレスのような問いがでてきていないように見える。
たとえば自然学。
 
シュタイナーは、人智学の課題として、
切り離されてしまっているプラトン的な潮流とアリストテレス的な潮流を
合流させることを意図していたのではないかと思うのだけれど、
そういう意味でいっても、『自由の哲学』という「思考」と「自由」についての論考を
自然学への展開の礎にしていく必要があるのではないだろうか。
ゲーテの自然学からの展開にしても、
その礎として『自由の哲学』が置かれなければならない。
 
シュタイナーはあまり強調しているようには見えないのだけれど、
シェリングの自然哲学というのは、おそらく、
プラトン的な潮流とアリストテレス的な潮流を結ぶための
重要な示唆になっているのではないかという印象を持っている。
シェリングにおいては、自然というのは、
自己意識的な叡智の生産を最高目的とした闇から光へのプロセスの体系である
ということになる。
その試みが成功しているかどうかはわからないけれど、
少なくとも、フィヒテ的な「自我」から「自然」への道を
つなげようとしたとはいえるのではないかと思う。
 
なぜ自分がいて、世界があるのだろう。
そのことを問うということは、
そのままこの自分を、そして世界をあらしめている
その自然学についての問いを展開させていくということでもある。
そうでないと「思考」と「私」、そして「世界」との関係が
とても抽象的なものになってしまうから。
 


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