風のトポスノート474

 

白鳥の歌


2003.4.9

 

          ぼくは、二十年近くまんが雑誌の現場で生きてきた。それよりさらに二十年
        近くは読者としてまんがに接してきた。そういった人間の一つの実感としてこ
        れは記すのだが、この十年間くらいのあいだにまんが家が一編のまんがを一つ
        の全体として統合する力が弱体化していったのではないか、と感じられてなら
        ないのだ。そしてそれを贖うかのように、サンプリング的創作がまんが界で公
        然化してきたようにも感じられる。
        (…)
         物語るという行為が一人の書き手のなかで解体し、かつ断片的な技術に特化
        していく一方で、音楽のジャンルで顕著なように創作の相当部分をコンピュー
        タが代行しうるようになっている。そういった外的要因からも、やがてまんが
        や小説における全体性は解体し、そしてそれを欠いていても見せかけ上は語る
        ことのできる制度ができあがり、さらに次の世代はそうやってつくられた物語
        を消費していくことになるのだろう。それはやはり一つの隘路にほかならない
        ように思える。そんなふうにしてサブカルチャーさえもが死んでいく、その最
        期をぼくは見ているのではないかと近ごろ思えてならないのである。つまり、
        ぼくにはサブカルチャーにおける「白鳥の歌」が聞こえるのである。
        (大塚英志「サブカルチャーであること」
         大塚英志『戦後民主主義のリハビリテーション』
         角川書店 平成13年7月15日発行 より/P35-38)
 
まるで工場の組立作業のように、
あるいはカラオケを歌うように、
物語が、音楽が、つくられる。
 
かつては職人が丹念につくりあげていたものが、
機械化されて量産できるようになる。
最初はその違いがわかっていたのが、
次第に量産されたものしか知らない人がふえて
それがふつうになる。
 
危機感からか、かつてのものが、
もういちど見直されてくる動きがあり、
栄養価の薄れた野菜ではなく
無農薬有機栽培が価値を持つようにもなっているが、
(そしてそれが疑わしい商品も出回ったりもしているが)
大量にでまわるのはむしろサプリメントのほうである。
 
大量破壊兵器の破棄が大義名分のはずだった戦争が
大量破壊兵器のことさえほとんど語られなくなった戦争のように、
なにもかもが、全体性がすぐに見失われてしまい、
見失ってしまったことさえ忘れさられるようになる。
 
私という、だれにでも少なくともひとつは持っているはずの語り手が
すでに解体されてしまっていたとしても気づきもしない・・・。
断片化された感覚と感情がゆきあたりばったりに編集されて、
その都度のそれらしい語り手になって私を語る。
「私」が不安になるとこんどは「私探し」が「国家探し」になったりもする。
アメリカではすでに「ヒコクミン」が復活し、
その「ヒコクミン」の嘆きの歌は
「白鳥の歌」となって、世界に木霊する。
 
しかし「白鳥の歌」が響いていることに
気づいていることはできる。
現代はそういう可能性のなかにある時代だともいえる。
多くのものがサンプリング的になっているとしても、
そのことに気づいていることによって、
そうでないもの、別の可能性のほうに
はじめて気づくことができるということでもあるのかもしれない。
 
物語も音楽もその灰のなかから
なにかが飛翔してくるのかもしれない。
最期こそが始まりだともいえるのだから。
それに気づきしっかりと立ち会える。
そんな「私」でありたいと切に思う。
 


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