風のトポスノート472

 

ビルドゥングス・ロマン


2003.4.4

 

	香山リカが言うところの『ぷちナショナリズム』とは、ぼくなりに理解し直せば、
	70年代以降継承してきた「私」探しの帰結として、「国家」に「私」を委ねてし
   まおうという屈託のなさの現われとしてあります。それこそネットで誰とでも繋
	がれるはずなのに、若い世代は私たちよりはるかに「私」である不安に耐えかね、
	小さな繋がりを小さな共同性の中に求めています。そういう時に、かつて「天皇」
	が小さな「ムラ」を生きた人々を一挙に「統合」するために持ち出されたように、
	「天皇的なもの」に対してこの国の耐性はひどく弱くなっている印象があります。
	ぼくが日頃、誇りなんて国家に持たせてもらおうと思うなと主張しているのはそ
   ういう意味ですが、人々が小さなユニットに分断され、その中に閉塞していれば
	いるほど、人々を「動員」し易くなります。例えば、旧正田邸のとり壊しで地元
   の人々が皇后の「お気持ち」を代弁してしまったように、勝手に天皇家の人々の
	「お気持ち」を自身のアイデンティティを代償するために持ち出し、そのことに
   小さなメディアも加担することさえ起きつつあります。これをぼくは小さな出来
	事とは思いません。そして、そのような保存運動に「保存を望まない」とコメン
   トした皇后は日本国憲法の理念に従い「天皇」が政治利用されないよう自らふる
	まった点が救いと言えば救いでした。
	(大塚英志「疎外された天皇を『断念』するために/カドカワムック178
	 大塚英志責任編集「新現実」Vol.02 2003.4.1発行 P46-47)
 
大塚英志責任編集による雑誌「新現実」Vol.02の特集は、「天皇制への立場」であり、
巻頭に大塚英志の宮台真司へのインタビュー「歴史を忘却する装置としての象徴天皇
制」、
続いて福田和也による「天皇抜きのナショナリズムについて」、
そして大塚英志による「疎外された天皇を『断念』するために」、と続く。
 
最近あらためて気付いたのだけれど、
宮台真司も福田和也も、そして大塚英志も、
ぼくとほとんど同世代に属しているといえる。
世代について語るのは半ば無意味なことでもあるのは承知であえていえば、
おそらくこの世代は世代の谷間に位置していることによって、
ある種の危機感をかなり意識的に共有しやすいといえるのかもしれない。
もちろん、福田和也と大塚英志ではその危機感への関わり方は
まるで逆の立場になるともいえるのだけれど。
 
その危機感というのは、おそらく日本の集合自我に関わることであるように思う。
すでにその役割をシフトしているであろう集合自我に対して、
それはもう終わったのだ、ということによって引き起こされるであろう混乱を直観し、
その終わったのだということをあえて認めないまま、現状をなんとか修復しようとい
う立場と、
終わったものは終わったものだ、いかに混乱が訪れようと
その終わった場所から始める以外にないのではないかという立場。
 
情けないというか、とても恐ろしいのは、
終わったのだということがわからないまま、
すでにないものの妄想にすがって教育や政治を行なおうとさえするような人たちであ
って、
そうした人たちが日本のこれからに暗雲をもたらそうとしているかのように思えるこ
とだ。
まさに、「誇りなんて国家に持たせてもらおうと思うな」といいたいのだけれど。
 
大塚英志は、『人身御供論』でも次のように述べていた。
 
	通過儀礼や成熟について考えることはぼくの批評の根幹である。にもかかわらず、
	あるフェミニズムの女性社会学者に言わせれば、「通過儀礼」や「成熟」にこだ
   わることがぼくの批評のつまらなさなのだという。なるほどぼくが彼女にそう揶
	揄された時点では、メディアのなかで「成熟」を口にすることは徹底して忌避さ
   れていたように思う。1980年代末に私たちが到達し得た高度消費社会はあた
	かも「成熟」という呪縛からの解放を私たちに保証していたように語られた。そ
   の象徴ともいえる「おたく」について論じることでメディアに登場したぼくが
	「成熟」を説くこと自体が倒錯であり、それは確かに「つまらない」ものであっ
   たはずだ。
	 しかしあれからほんのわずかしかたっていないのに他人の国の戦争やバブルの
   崩壊とやらですっかりと消費社会的な問題は精算され、人々は唐突にしかも一斉
	に「国家」の成熟という問題を語りだした。そのなかにはぼくと同世代の「おた
   く」的サブカルチャー領域に出自を持つ人々が多数含まれており、彼らを含めて
	国家の成熟について語る人々の多くは自己の「成熟」をめぐる問題を無批判に国
   家の「成熟」にすりかえようとしている。そこでは戦後の日本やそれを支えた
	「戦後民主主義」は「未成熟な若者」のアナロジーによって批判される。しかし
   言うまでもないことだが、「国家」の成熟と「個人」の成熟は全く別個の問題で
	あり、両者がどこかで通底しているにせよ、「国家」の成熟に一体化する形での
   奇妙な自己実現の形にだけは違和を覚える。あるいは、個人の成熟という物語の
	アナロジーで「国家」の問題が語られることに危惧を覚えるのだと言い換えても
   よい。個人の成熟をめぐる物語を現時点で紡ぎだし得ていないなかで語られる
	「国家の成熟」の物語に実りがあるとはどうしても思えない。繰り返すが、その
   ような文脈で語られる「成熟の物語」は極めて危険だ。もしこの国の将来につい
	て語ろうとするのであれば、それはビルドゥングス・ロマンのアナロジーで語ら
   れるべきではないのだ。
	(大塚英志『人身御供論』角川文庫/平成14年7月25日発行/P247248)
 
どんなに稚拙に見えようとも、
百足が自分の足を意識せざるをえなくなって、
どんなにぶざまな歩き方をしようとも、
そこから始めることでしか「ビルドゥングス・ロマン」は始まらない。
 
歩くのが大変だからといって、
どこかに乗っかって自分で歩かないにもかかわらず、
自分が歩いているような気にはならないほうがいい。
しかも、その乗っているのがどんな乗り物なのかわかりもしないのだ。
ひょっとしたらそれは大きな大きな怪物の背中で、
気がつくと大洋のまんなかでいきなり海中にもぐってしまうことになるかもしれない。
 
考えるのもひとに考えてもらうことが決してできないように、
歩くのもひとに歩いてもらうことは決してできない。
「ビルドゥングス・ロマン」はけっこうダサイものだけれど、
そのダサイところからはじめなければなにもはじまりはしないのだから。
 


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