風のトポスノート471

 

真空


2003.4.2

 

	 ある空間から物質をすべて排除するーーこのような方針にしたがって、わ
	れわれは、真空ポンプを発達させ、かぎりなく完全な真空に接近してきた。
	だが、物質を排除したからといって、それがからっぽの無の状態というわけ
	ではない。完全な真空であっても、そこには空間があり時間が流れているか
	らだ。面白いことに、「時空のかたまり」というべき完全な時空が、物質の
	存在によりーー重力が発生するためにーーゆがめられてしまうのだ。言葉を
	変えれば、ゆがんだ時空は、重力場の発生、すなわち物質の存在を予測して
	いる、ということになる。物質を排除したはずの真空が、実は物質を包み込
	んでいる。
	(広瀬立茂『真空とはなんだろう』
	 講談社ブルーバックス 2003.3.20発行/P94)
 
「あいまい」をテーマにしたシンポジウム(1999.3.5-7)の記録、
河合隼雄・中沢新一編『「あいまい」の知』が面白い。
機会があればほかのテーマのものもご紹介したいと思っているのだけれど、
少し前に広瀬立茂『真空とはなんだろう』が気になっていたのが、
ちょうどこのシンポジウム報告にも佐藤文隆「真空ーー無いことの曖昧さ」が
収められていたのでとくに興味をもった。
 
「真空」、というのは、ちょっと考えると、
なにもない空間だというふうに考えがちなのだけれど、
いわれてみれば、なにもないというのはおかしいということに気付く。
 
トリチェリの水銀を使った真空をつくりだす実験というのがあるが、
それはいわゆる「空気」がないということであって、なにもないということではない。
水銀柱の上にできているのは、「空気」を差し引いた空間にすぎないのである。
 
	 真空は何もないのだから曖昧さなく明確に定義できるものではなく、既知の
	部分を差し引いた全ての未知の曖昧さを残した存在である。引き算したものは
	知っているが何から引いたかを知らないのである。すると既知の種類の密度な
	どで表示する状態の指定はこの「未知の真空」の上に重ねる部分だけに言及し
	た指定であることに気付く。本質的に「差額主義」なのである。
	「未知の真空」が容易には検出できず、容易には変化しないものならば、そん
	なものは無視してよい。関わりのないことは「存在しない」という主義があり	
   得る。歴史的にはどの時代でもこういう現実主義を決め込んで、言う事が次々
	と変わってきたのが「進歩」である。そして、特に二十世紀には、高エネルギ
	ーや検出技術の進歩で「関わりのある存在」をかつての真空から次々と掘り出
	してきたというのが歴史的経過である。こういうことがどこで尽きるかは未知
	なのだから、真空はいつも曖昧な存在に止まっている。
	(佐藤文隆「真空ーー無いことの曖昧さ」
	 河合隼雄・中沢新一編『「あいまい」の知』
	 岩波書店2003.3.25発行 所収/P71-72)
 
現代の物理学が明らかにしてきている「真空」の姿については、
とくに広瀬立茂『真空とはなんだろう』に大変興味深く述べられているので、
興味のある方はぜひそちらを読んでいただければと思うのだけれど、
(というかここでそれを説明する能力がないだけなのだけれど(^^;)
ここでは、上記の引用にある「差額主義」について注目しておきたいと思う。
 
「真空」にはなにかが充満していて、
最初はそこから空気を取り出してしまえば、
そこにはからっぽになると思いきや
そこにはなにかが充満していると考える必要がある。
佐藤文隆さんは、興味深いことに、「相対論的なエーテル」という表現を使っていた
りもする。
 
	それでは19世紀の電磁波の媒体であったエーテルが復活したのかといえば、そ
	う理解するほうが納得がいくと思う。相対論で否定されたというが、相対論的
	なエーテルが復活したと思えばいい。金属で囲むと真空が影響を受ける。この
	カシミア効果は実験でも確かめられており、真空はからっぽでなく何かが充満
	していると考えなければならない。
	(佐藤文隆「真空ーー無いことの曖昧さ」P76)
 
このからっぽにみえるところになにかが充満しているというのは興味深い。
たとえば、言葉にしないで沈黙しているとなにも考えていない
というようなアナロジーを考えてみる。
もちろん沈黙がすべて豊かだとはいえないけれど、
少なくともそここそがあらゆるものの可能性を包み込んでいることもある。
 
それまでそこはからっぽだと「現実主義」的に思い込んでいたところ、
見ないようにしていたところに目を向けてみること。
そしてそのかぎりない豊かさを認識してみようとすること。
精神科学的方向づけもそれに関わるものだといえるのかもしれない。
 
ちなみに、佐藤文隆さんは、「世界論」に関して「充満論」と「真空論」とがあり、
現代物理学はアリストテレス的「充満論」の方向性だとしている。
 
	 世界論の対向軸の一つは充満論と真空論である。空っぽの存在を自明の理
	とする真空論とそこに充満するものがあるから空間があるとする充満論であ
	る。現代物理学の描く世界観は「自然は真空を忌避する」という中性スコラ
	哲学の命題と妙に共鳴するところがある。
	 真空論の系譜は古代ギリシャのアトミズム、トリチェリーパスカル、ニュ
	ートン、アインシュタインーミンコフスキーであり、充満論の系譜はアリス
	トテレスースコラ哲学、デカルト渦動、電磁エーテル、場の量子論、相互作
	用統一理論、である。時代によって真空論も充満論の具体的な内容は異なる
	が、この二つの概念には時代をとおして一貫した側面がある。真空論での空
	間はそこで振舞う存在を拘束せず、自由な空間であることを強調している。
	それに対して充満論は存在が空間に瀰漫するものとの作用のもとにあること
	を強調する。
	(佐藤文隆「真空ーー無いことの曖昧さ」P82)
 


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