風のトポスノート470

 

言葉と現実


2003.3.27

 

         しょせんは言葉、現実じゃないよ、という言い方をする大人を、決して信用しちゃいけま
        せん。そういう人は、言葉よりも先に現実というものがある、そして、現実とは目に見える
        物のことである、とただ思い込んで、言葉こそが現実を作っているという本当のことを知ら
        ない人です。君にも、もうわかるはずだ。目に見える物は、目に見えない意味がなければな
        く、目に見えないこともまた、目に見えない意味がなければない。「犬」という言葉がなけ
        れば、犬はいないし、「美しい」という言葉がなければ、美しい物なんかない。それなら、
        言葉がなければ、どうして現実なんかあるものだろうか。
         だからこそ、言葉を大事にするということが、自分を大事にするということなんだ。
        (池田晶子『14歳からの哲学 /考えるための教科書』
         トランスビュー 2003.3.20発行/P36)
 
ぼくは学校で国語の時間というのが好きじゃなかったし、
決してその国語のテストというのができたほうじゃなかった。
先日、そのことについてyuccaが、しみじみと(^^;、ぼくの国語音痴について、
なぜできなかったのかよくわからないんだけど、ときいてきたことがあった。
読解ができない、つまりは文章が読みとれないほどではなかっただろうし…、と。
 
それで自分でもなぜなのかを
国語のテストを受けていた状態を思い出しながら考えていたのだけれど、
気づいたことは、ぼくはなぜそんな文章が出題されているのか、
またなぜそういう問題が提出されなければならないのか、について
テストを前にしてわりと考え込んでしまって、
時間内に解答用紙を埋めることができなかったのだということだった。
 
そういう態度というのは、テストを受ける基礎条件から外れていたというか、
要するにプラグマティックなラベルでエラーを起こしていたわけである。
そういえば、そういうレベルでエラーを起こさない場合とか
過剰な記憶力を要求されないところでだけは、
テストの解答用紙を埋めるのはそんなにむずかしいことではなかったと思う。
 
ところで、言葉である。
国語の問題は言葉でつくられている、というか、
(国語でなくても言葉でテストの問題はつくられているのだが)
言葉とそれによって表現された世界そのものが問われている。
そう考えていくと、国語の時間というのは、
本来はとても大事な授業だということがわかる。
あえていえば、学校では国語の時間だけであってもいいくらいに。
 
ところで、「現実」というのは、いったいなんだろう。
あたりまえのようでいて、決してあたりまえではない「現実」。
 
私たちは知覚されているその内容に概念を結びつけることによって
おそらくは「現実」を構築していくことになる。
いくらなにかを見てもそれをなんらかの概念に結びつけることができないとき、
それがいったい何なのかは決してわからない。
つまり、「現実」を形成することができない。
 
知覚内容と概念を結びつけるものが思考である。
そして、言葉は概念を表現する乗り物でもあって、思考と深く関わってくる。
(もちろん、それだけが言葉じゃない。音だってあるし、書かれたりもするし。)
 
なんだかむずかしそうで、
こういうことを考えていくのは敷居が高いかもしれないが、
少なくとも、言葉についての感受性を磨いていくことはとても大事なことだと思う。
もちろん、欧米でのように、なんでも言葉で説明しないと
それが存在しないかのようにいうのはちょっと極端だけれど、
そういう即物的なまでの在り方は別として、
また言葉で実際に表現するかどうかは別として、
考えるということにおいて、いかに言葉が重要になってくるということだけは
ちゃんと知っておく必要があるのだと思う。
考えることができるかどうかで、
現実の多様性や豊かさのありようが変わってくるのだから。
 


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