風のトポスノート469

 

「考える」の原点


2003.3.24

 

         だから、「誰にとっても正しいこと」というのは、「みんなが正しいと思っていること」
        ではないということも、もうわかるだろう。「みんな」、世の中の大多数の人は、当たり前
        のことを当たり前だと思って、わからないことをわからないと思わないで、「考える」とい
        うことをしていないから、正しくないことを正しいと思っていることがある。でも、いくら
        大勢で思ったって、正しくないことが正しいことになるわけではないね。だから、たとえそ
        う考えるのが、世界中で君ひとりだけだとしても、君は、誰にとっても正しいことを、自分
        ひとりで考えてゆけばいいんだ。なぜって、それが、君が本当に生きるということだからだ。
        (池田晶子『14歳からの哲学 /考えるための教科書』
         トランスビュー 2003.3.20発行/P23)
 
答えはずっと出せないかもしれない。
おそらくそうなってしまうだろうけれど、
わからないことをわからないと思うこと、
そのわからないことについて考えようとすることは、
だれにでもできることだ。
 
みんながそう思っているからといってそうだとは限らないし、
みんなが思い込んでいるからといってそうでないとも限らない。
でも、なぜそれがそうなのかということを
自分で考えるか考えないかはまったく違う。
 
大勢で思っていることをそのまま正しいと信じてしまって
大勢のひとりになるのは楽なのかもしれないけれど
また、自分だけがそう思っていて
それが正しいと思いこむこともそれなりに気分いいかもしれないけれど、
そのどちらも自分で考えるということとは別のものだ。
 
考えれば考えるほどに、
最初のなぜそうなんだろうに対する答えよりも
わからないことはずっとずっと増えていくけれど、
わからないことが見つかって
わからないことをわからないとわかることは
とても大事なことではないかと思う。
 
考えるなんてことをしていたら
何もできなくなってしまうという人もいるかもしれないけれど、
考えないからなにかをするというのはやっぱり困ったことになる。
 
なぜ自分はそうするのかを自分なりに考えてそうするのと
なぜそうするのかわらないままにそうしてしまうのとでは
それがいいかわるいかということは別にして
問いを深めていくことができるかどうかが違ってくる。
 
これはある仮説をつくってそれを検証していくことにも似ている。
なんだかわからないけれど実験してみたとしてもなにも検証できない。
ただもやもやとしたものがもやもやとしたものになるだけか、
うれしかったか悲しかったかが残るだけ。
うれしかったり悲しかったりするのときに、
なぜうれしかったのかなぜ悲しかったりするのかが
わかるのとわからないのとではやっぱり違ってくる。
 
仏教などでもまず四苦八苦が四苦八苦であるということがわかり
さらにそれがなぜ四苦八苦となるのかを考えようとすることからはじめるように
自分がなぜそうするのかということ
また自分がそうしたことについてなぜうれしかったのか悲しかったのかということがわかると
そこからまた新たな仮説なりをつくることができる。
 
もちろんそれでなにかが解決してまうわけではおそらくなくて、
そこからまたわからないことがたくさんでてきてしまうのだけれど、
その繰り返しのなかでしか「本当に生きる」ということはできないのではないかと思う。
 
でも、わからないことをわからないと知るのがいやだったり、
なぜそうなんだろうと考えるということもいやだったりするのであれば、
最初の出発点がないことになってしまう。
困ったことに、とほほ。
 


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