風のトポスノート468 

 

哄笑を呼ぶユーモア・突っ走る想像力


2003.3.21

 

         どうも世間の宮澤賢治ファンの人たちは、ゲンジさんという人を徹底して
        誠実で、禁欲的で、求道的な人格者として見ているようだ。しかし、この人
        は時としてとんでもなく奔放なことを考える。そういう力がなくてはあのた
        くさんの童話はとても書かれなかっただろう。人生の最後の段階ではたしか
        に彼は誠実で、禁欲的で、求道的な人格者になったけれども、それだけしか
        残らなかったとしたらそれは一種の衰弱である。哄笑を呼ぶユーモアやら勝
        手にどこまでも突っ走る想像力やらを矯めてしまっては本当に強い作品は生
        まれない。
        (池澤夏樹『言葉の流星群』角川書店 平成15年3月5日発行/P28)
 
モーツァルトのイメージといえば、
悲しみが疾走する・・・とかいうのもあるけれど、
それはたぶん、ウンチをもって走り回っているような(^^;)、
そんなところがあってこそ、あの限りない美しさが生み出されてくるのだろう。
それはただの一枚岩の美しさではないのだ。
天上からあの美しさをもらってくるには、地上において
「哄笑を呼ぶユーモアやら勝手にどこまでも突っ走る想像力やら」を
かぎりなく展開させてみる必要がある。
 
まさかモーツァルトを「禁欲的で、求道的な人格者」として
見てしまう人はいないだろうけれど、
宮沢賢治という人は「雨ニモマケズ」なので、
どうもそのように見られてしまいがちなのかもしれない。
しかし、その賢治、たとえばあれだけこだわった菜食主義も
最初からそうだったわけではない。
嵐山光三郎の『文人悪食』(新潮文庫)にはこうある。
 
         賢治は肉も食べたし、高級料亭にも出入りしたし、酒も飲んだ。自ら醸造
        したワインを客にふるまった。天ぷら蕎麦と鰻が好物であったことも、友人
        知己の回想に記されている。花巻の酔日という料亭で飲み、芸者とも談笑し、
        最高級レストラン精養軒へ通った。酒は弱いほうではなかった。常習的な喫
        煙者ではないが、学校ではときどき高級煙草「敷島」やオゾンパイプをふか
        していた。(P352)
 
おもしろいことに、「雨ニモマケズ」でも
「一日ニ玄米四合」とあるけれど、
大食漢でもないかぎり「一日ニ玄米四合」はちょっと食べられない。
あの求道の象徴のように見られがちな「雨ニモマケズ」にしても、
悲しみの疾走するモーツァルトが
実はウンチを持って走っているようなところがあったわけである。
夏目漱石の後期のかなり重い作品群にも、
最初期の『吾輩は猫である』の落語的なユーモアの地層がある。
シュタイナーにしても、若きシュタイナーは
(性格はまっすぐだったとしても)決してただの求道者ではない。
 
いちばんいいのは、というか、
親近感の持てる人というか、信頼できる人というのは、
「求道的な人格者」というふうになったとしても、
その理由が、ただの禁欲ではない人である。
つまり、奔放なまでに遊び尽くして、
もうそういうことそのものがどうであるかなど
どうでもよくなっているような人。
一休のような「狂」の魅力も、
決してただの「求道的な人格者」のようにはならないところにある。
 
ところで、あのブッシュのイラク攻撃にしても、
それに対するアンチがあの60年代ばりの
ラブ&ピースになってしまうとかいうのも、
なんだかちょっとうんざりしてしまうところもあったりする。
ブッシュの演説はあまりにも露骨なレトリックに満ちていたし、
フセインの読み上げていた言葉もあまりのおきまりのフレーズだった。
また戦争反対のさまざまもまた
かつてどこかで聞いたような台詞に満ちていた。
 
じゃあどうしたらいいのかといっても、
どうしていいかわからないわけだけれど、
少なくともただのラブ&ピースだったとしたら、
その後の40年ほどは無駄だったのかということになる。
その間にあったはずの想像力の飛翔はどこにいってしまったのか。
ジョン・レノンの「イマジン」はそれはそれでいいのだけれど、
それがただの真面目な「雨ニモマケズ」になってしまったら、
ただの平和の教科書になってしまう。
 
「狂」いながらそれを越えていくような、
「哄笑を呼ぶユーモアやら勝手にどこまでも突っ走る想像力やら」で
軽快に、戦争か平和かというような一面性のそばを
疾走していけるような在り方や表現は可能ではないのだろうか。
たとえ、その「レクイエム」が未完に終わったとしても、
そこに、あの、ウンチをもって走りながら、
悲しみを疾走させていたかぎりなく重層的で軽快な想像力を
飛翔させる何かも可能なのではないか。
そんなことを思ってみたりもする。


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