風のトポスノート466 

 

ブランショの死


2003.3.18

 

         さきごろ、ひとりの老文学者がパリ近郊でひっそりと生から消えた。
        モーリス・ブランショ、享年九十五歳。
        出発のとき以来、小説と批評の両面において、「文学はいかにして可能
        か」という問題を追いつづけた文学者である。マラルメ、カフカ、リル
        ケ。ヘルダーリンなどを主要な対象とした彼の批評には、文学について
        何ごとかを語ろうとする場合の原理そのものと言える文学的思考がつら
        ぬかれていた。
         たとえば今日、ブランショ抜きでマラルメを語ることは不可能である。
        こうして彼は、二十世紀後半の文学界に特異な影響力を深く及ぼすに至
        る。彼に深い敬意をささげている人たちと言えば、ジョルジュ・バタイ
        ユ、ミシェル・フーコー、ルネ・シャールをはじめとして、現代フラン
        スの文学界と思想界の最良の名が並ぶだろう。
         他方で、彼からもっとも信頼されていた哲学者ジャック・デリダが葬
        儀で語ったことだが、このように深い文学的射程とは対比的に、とりわ
        け第二次大戦後のブランショはこのうえなく控えめな存在だった。日常
        生活ではほとんど姿を見せず、孤独のなかに閉じこもり、まともな肖像
        写真は一枚もない。
        (…)
         ブランショは、マラルメやリルケやカフカを分析しながら、文学の真
        のはじまりは、「私」がいわば「だれでもない私」と化して、「語りえ
        ないことを語りはじめる」ことに他ならないと言う。そして、そのよう
        にして、文学の端緒が根をおろす「文学空間」はこうした「火の地帯」
        「死の空間」と等質なものだという論理を、じつに説得的に展開したの
        である。
         たとえば<死>のように、見ることのできぬもの、語ることのできぬ
        ものをあえて見ようとし、あえて語ろうとするーーーそれはブランショ
        にといって、人間であることの力のかぎりをつくすことなのである。そ
        して彼は、肩と肩をならべるようにして、そういう未知なるもの、至高
        なるものへと眼差しを向けている者たちを結びつけるありようを「友愛」
        という美しい名で呼んだ。
        (清水徹「『語れぬもの』語り続けた人/孤高の文学者M.ブランショ
        を悼む」2003.3.18 朝日新聞)
 
ブランショが死んだ?
ブランショにとって「死」はもっともふさわしいものであり、
かつまたその現実の死はもっとも非現実のものであるように感じてしまう。
 
謎のようなブランショ。
 
「ブランショ」は、ぼくにとっての「文学」の意識化とともにあった。
ぼくにとって幸福でもありまた不幸でもあったのは、
それ以前において「文学」が存在してなかったかもしれないことだ。
要は、「文学」なるものをかろうじて読み始める時期と
ブランショを知った時期が同じであるということ。
ある意味でそれは滑稽なことでもあるのだが、
ぼくにとっての必然的なありようでもあったのかもしれない。
 
じっさいのところ、ブランショの語ることは
まるで謎のようで、理解しがたいものだったのだけれど、
その反面、かぎりなく近しい、「友愛」のような言葉でもあった。
まさに、まるで「死」のように。
 
ブランショの名を知る人と知らぬ人の間には
おそらく深い深い谷があるのかもしれない。
生が生でしかありえない人と
生が常に死とともにしかありえない人と。
 
ある意味で、ブランショの名を郷愁のようにしか
ごくたまに思い起こすことしかなくなっていたここ20年ほどの間に、
ブランショはその姿を隠しながら、
別の姿でぼくのなかの「死」を生きるようになっていたのかもしれない。
神秘学とは「死」とともにあるということでもあるのだから。
 
ブランショ。
顔の見えない「だれでもない私」としてのブランショ。
「語りえないことを語りはじめる」、語りはじめようとするブランショ。
力のかぎり、死とともにあるブランショ。
 
その死に、ぼくの「だれでもない私」から花束を贈ろう。
そして「語りえないことを語りはじめる」という「友愛」に
ぼくも力のかぎりをつくしたい。
半ば愚かしくも滑稽にもそんなことを思ってみたりもする。
 


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