風のトポスノート465 

 

世界があるということ


2003.3.14

 

        「ああ……君が、自分と世界を見捨てない限りはーー」
        (上遠野浩平『ジンクス・ショップへようこそ』
         電撃文庫 2003.3.25発行/P290)
 
なぜ世界があるのか。
それはあなたが自分と世界を見捨てていないからなのかもしれない。
そしておそらく自分も世界も
それぞれのに意味づけられたものとして現出してくる。
 
だから、中途半端に見捨てたとき、
自分も世界もなくなってしまう。
というよりは、とても難しい状態の存在になってしまう。
 
たとえば、自殺するとする。
自殺というのは、自分と世界を見捨てることではなく、
自分と世界の「今」の在り方を見捨てたいと願っているだけで、
決して見捨てているわけではなない。
むしろその逆に執着を深めていくだけなのかもしれない。
そのために自分も世界も難しい場所で存在するしかなくなる。
 
諦念ということばがある。
諦めるということ。
高校生の頃、それこそ自殺しかねなかった頃、
その諦めるということこそ悟りではないか、とか
鬱々として考えたりしていたことがある。
なんだか、「苦」の世界・・・(^^;)。
 
今のぼくも相変わらず悟りからは無縁だけれど、
その諦念のようなものだけは
どこかでずっと持ち続けているような気がする。
 
自分を世界をある意味で諦めること。
見捨てるというよりも諦めること。
それは「苦」を認識しようとすることでもあったりする。
「苦」とはいったいどこからくるのか。
それは、自分と世界があるということからくるのかもしれない。
そんなことをおりにふれて考えたりもする。
おそらくその諦念というのは
一種のホメオパシー的な働きがあって、
それゆえに「苦」の認識に向かうことがあるのである。
 
なぜ、「仏陀からキリストへ」なのか。
「自分と世界があるということ」のなかへ
まさに降りていこうとする衝動のためなのかもしれない。
「解脱」ではなく、「苦」というプロセスゆえの「愛」へ。
 
ああ、今日も朝日が昇り、自分と世界がはじまる。
いったいどんな自分であり、また世界なのか……。
 


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