風のトポスノート464 

 

速度


2003.3.8

 

         これは消費される小説だ。
         だから、十二人の女子高生に次々と告白されるビデオゲームのノベライズや、
        たまたま主演したアニメがヒットしたことを勘違いした声優の詩集と称する物
        や、そんな屑のような文章と同じレーベルで流通する。
         これは消費される小説だ。
         だから出版社は小説の中身よりもカバーのまんが家のイラストの方が売れ行
        きを左右すると信じ、どうせ作家は日本語さえ書けないのだと言いたげに、校
        閲は誤植も満足に拾ってないゲラを平気で出してくる。
         けれども、これは消費される小説でなくてはならない。
         小説がまるでキャラクター商品のように、眩暈がするような速度で屑も屑で
        ないものも等しく消費され、消えてゆく、そういう現場がこの小説には必要だ。
         速度。
         そう、重要なのは消費される小説だけが持ちうる速度だ。
         屑さえも書物に仕立て上げる速度だ。
         その速度に乗せなければ届かないことばというものがある。
         その速度に乗せなければ届かない遠い場所に読者がいる。
         十四歳の、それこそちょっと前ならポケットのバタフライ・ナイフを握りし
        めて、世界中を呪詛しているようなそんな少年に最初から届かなかったら『サ
        イコ』は止めるよ、とぼくは連載を始める時に編集者にいった。
         (…)
         彼らにことばを届けるのは消費される小説の速度が必要だ。
         かつてのぼくもそうだったから。
         速度。
         そして、それ故に届く、という確信。
         たった今、サブ・カルチャーの作り手としてのぼくに必要なのはこの二つだ。
        (大塚英志『多重人格探偵サイコ2』あとがき より
         角川スニーカー文庫/平成10年9月1日発行)
 
これは「角川スニーカー文庫」的な乗り物に乗せた
大塚英志の気概なのだろう。
届けるための「速度」。
乗り物ゆえに要求される「速度」。
その「速度」でなければ届かない何か。
 
「速度」ということ。
 
インターネットにもその乗り物に必要とされる速度がある。
その速度でなければ意味をもたない何か。
その速度ゆえにできないこともあるが、
それは決して「勘違い」していいということではない。
もちろん「勘違い」や「屑」のほうがずっと多いだろうし、
それは「角川スニーカー文庫」的なものの比でさえないほどだけれど。
 
届けるための「速度」。
それは別の「速度」がダメだというではもちろんないだろう。
むしろ別の「速度」でしかできないことを
サポートするものでなくてはならないのかもしれない。
しかし必要な「速度」は確実にあるように思う。
 
たとえば、シュタイナー教育とかいうものは、
こうした「速度」とは対極にある「速度」のようにもみえる。
ある意味では、それに必要なプロセスゆえに「速度」が否定されもするだろう。
けれど今必要とされる「速度」が否定されない在り方も
また可能なのではないだろうかとぼくは夢想してみる。
 
それは今この自分をすでに壊れたものとして諦めず
懲りずに自己教育しようとするプロセスに置くために
必要とされるもののことでもある。
そこには「速度」が否定される部分があり
また同時に「速度」のなかでこそみずからを変容させるなにかが
そこに現出するものもあるようにも思う。
そのために「消費される」何かが
たとえばこうしたインターネットのなかでも
必要とされているのかもしれないのだ。
 
「その速度に乗せなければ届かない遠い場所に」いる人たちに向けて、
それは同時にその乗り物に乗ってなにがしかを発している自分に向けてでもあるが、
その「速度」、こうして書かれる「屑」をもネットで発する「速度」。
「確信」はもとよりないが、
ある意味でこれもまた新たな「サブ・カルチャー」でもあり、
それは同時にかつて「サブ・カルチャー」と呼ばれていたような在り方とは
可能性として一線を画したものでもあるのではないかと思っている。
 
いまだその「速度」については
あいまいなイメージしか持ち得てはいないし、
明確なことばで語れるようなものではないのだけれど、
「乗り物」ゆえの「速度」について
漠然とした予感のようなものを感じていたりもするのだ。
 


■「風のトポスノート401-500」に戻る
■「思想・哲学・宗教」メニューに戻る
■神秘学遊戯団ホームページに戻る