風のトポスノート463 

 

待つ


2003.3.8

 

         過去については思い出すということがあるし、未来については待つと
        いうことがある。私たちはいつも何かを待っている。
        (木村敏「待つ」 2003.3.8付朝日新聞「時のかたち」より)
 
私たちは待つ、
何かを待たざるをえない
ということがあるのだけれど、
待てないことのほうが多いようにも思う。
 
待つというのは訪れるのを待つということでもあり、
またみずからの内から育ってくるのを待つという
自然(じねん)でもあるけれど、
それが待てない。
 
はやく結果がほしい。
ときには、その想定される結果から逃げたくて、
結果を否定して過去に逃げ込む。
 
そして、待てないために、
なにかを損なってしまう。
 
待つというのは
今この現在にしっかり居ながら、
つまりそのプロセスのなかを生きながら、
過去と未来をそのなかで「中」じていくことなのだろう。
 
待つというのは愛だときいたことがある。
悪は時季はずれの善だともいうのだが、
悪はプロセスを待てないために
ほんらいのものがほんらいでなくなってしまうこと。
しかしときに、善だとされているものも、
それが強要されることで
善の仮面をした悪になることがある。
 
そういう意味でも
時間があるということによって、
愛の可能性が生まれ、
善と悪もまた生まれたということができる。
 
アメリカはイラクを待てず、
善の御旗を挙げて悪を討とうとする。
 
私は何を待っているのだろうか。
そして何を待てないのだろうか。
 


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