風のトポスノート462 

 

記憶と時間


2003.3.7

 

         記憶にはいろいろな種類のものがある。たとえば過去のある出来事を
        現在の時点で思い出せるというのも記憶だし、過去に覚え込んだ知識や
        能力が身について、それをいつでも利用できるというのも記憶の一種で
        ある。
         そういった記憶はすべて、過去が消えてしまわずに現在まで残ってい
        るということを意味している。そしてそこには、時間は過去から未来に
        向かって進むものだというイメージが強くはたらいている。これは時計
        の針の進み方といっしょだ。
         しかし時間の向きには、それと反対のイメージの仕方もあるのではな
        いか。「まだ来ない」未来から「現にある」現在を通って、過去へ向か
        って「過ぎ去る」というイメージである。私にはどうやら、そっちのほ
        うが時間を生きるという生き方にふさわしいように思える。
         その場合だと記憶はどうなるだろう。…時間を生きるというのは現在
        を生きるということである。私がそうやって生きている現在の底のほう
        に、過去へ向かって過ぎ去ってしまわない記憶という層が含まれていて、
        それが現在の厚みになっているということではないのか。
        (木村敏「記憶」 2003.3.7付朝日新聞「時のかたち」より)
 
ビデオ編集をしていると
ある瞬間のフレームを繋いでいく作業のなかで、
時間と空間のイメージについて
それをアナロジーのようにしていろいろ考えさせられることがある。
 
撮影するのは物理的な時間の進行に応じてしかできないのだけれど、
編集するときにはその時間の順序は編集の意図で変わってくる。
最後に撮影したシーンが最初に使われることもできるわけである。
ある瞬間のフレーム単位ではあるが時間軸の入れ替えができる。
その入れ替えというのは、編集の意図に従って行なわれる。
その意図というのはどういうことだろうと思ったりもする。
 
今私たちの生きている世界を
それをもとにイメージしてみる。
もちろんそこでやっかいなのは、
単純に考えて、過去は過ぎ去っているが
未来はまだ来ていない。
まだ編集が完了していないというか、
今このときにおいて編集がなされているのである。
 
そのときに使えるのは、
過去の記憶というデータだけかといえば、
そうでないともいえる。
今まだ来ていない未来からの影響も確かにそこにはある。
「編集の意図」が現在進行形でそこに働いているともいえる。
 
しかも過去の記憶というデータは、
必ずしも絶対的なものではない。
現在から過去をふりかえってみたデータは、
現在において更新され続けているデータであって、
ときには(というかその多くは)
ほとんど失われてしまっているともいえる。
忘れているということもできるし、
思い出す可能性も残されている。
しかも現在の意味付けでそれは別の姿をとってくる。
 
同じことはある程度、未来からくるであろう
予想される各種データからのものについてもいえるように思う。
 
それでは、「編集の意図」は
いったいどこからくるのだろう。
今のこの私であるということでもあるが、
その「私」というのはただ意識されている「私」だけではなく、
もっと時間の直線的な流れから自由な「私」であるという気もする。
 


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