風のトポスノート460 

 

関心ということ


2003.3.1

 

        ケアはケアを必要としている人に何かをしてあげることだという思い込み
        から、まずは自由になる必要があるだろう。
        …沈黙が饒舌よりはるかに物をいうことがあるように、何もしないことが
        献身的な行為よりも多くをなしとげるということがある。いや何もしない
        というより、してはいけないことが、結果としてはよりよいことをなしと
        げるということすらある。そしてこれが、現実というもののおもしろいと
        ころ、一筋縄ではいかないところだ。
        …
         ひとはたしかに、じぶんのことを気に病んでくれるひとがいるというこ
        とで、生きる力を得ることがある。見守られていると感じることで生きつ
        づけることができる。が、しかし、ひとは他人にそのように関心をもたれ
        ることによってのみならず、他人に関心をもつことでも生きる力を内に感
        じることができる。生きる力というものは、しばしば、じぶんの存在が他
        人のなかで意味をもっていると感じるところから生まれるからである。
        (鷲田清一「臨床と言葉」(一)「語り」について
         河合隼雄・鷲田清一『臨床とことば』所収
         TBSブリタニカ 2003.2.17発行 P200-204)
 
おそらく人がいちばんつらいのは、
無視されることなのではないだろうか。
関心をもってさえもらえないということ。
 
関心は英語でinterest。
ラテン語のinter-esse「あいだにあるということ」からきているそうだが
その相互性の質によって、人は生きがいをもつこともできれば、
嫉妬することも、怒り狂うこともできる。
 
そしておそらく、「じぶんが必要とされている」ということが
実感されるほどの「関心」という相互性が得られたならば、
それだけで人は生きていくことができる。
 
無視という、関心の相互性のない状態から
ほんとうに必要とされているという深い関心までの振幅のあいだを
人は彷徨っているのだといえるのかもしれない。
 
無視されると人は生きていけないために、
たとえ否定的であるにしても、
そのことで自分になんらかの意味を見出すために、
人はさまざまに人に働きかける。
 
たとえば、非行だとか暴走族だとかいうのもそのひとつ。
とにかく人はじぶんという存在を、
なんらかの関心という相互性のなかに置くことで、
なんとか生きる力を得ようとする。
そういう仕方は、一方的に何かをしてもらう、という関心の持たれ方よりも
そこにじぶんという存在の意味を発見することができる。
 
なぜいまボランティアが「必要とされているか」といえば、
ボランティアをするということによって
そこにじぶんという存在の意味を発見することができるからである。
逆にいえば、そうしないと自分という存在の意味を見出すことができない。
 
なぜ宗教というのが往々にして逃避的な狂信の場になるかというのも、
そういう場ではじぶんの意味づけをすることが容易だからなのではないだろうか。
もちろんその意味づけに満足できるだけの単純さが必要とされるのだけれど。
 
ところで深い絶望のなかで、
人はじぶんにとってもじぶんが必要とされていない状態になる。
もはやじぶんにさえ関心がもてなくなってくるのである。
もちろんそれは逆の意味でものすごいエネルギーで
じぶんへの関心を希求しているともいえるのだけれど、
そうしたなかにいても、だれかがじぶんに関心をもっていてくれる、
しかも必要とされている、ということによって
そこにinter-esseという相互性が発動され得るのだろう。
 


■「風のトポスノート401-500」に戻る
■「思想・哲学・宗教」メニューに戻る
■神秘学遊戯団ホームページに戻る