鷲田 先生は前に「治療行為というのは話を聴くというけれども、実は聴く ということは、承って、そしてこうではないですかと言うんではない。むし ろその人の世界に入っていくと、実は入り込んできた人が自分に距離を取れ るというような効果があって、そういう一種の自己回復力みたいなものに期 待する」とおっしゃっていましたですね。 (河合隼雄・鷲田清一『臨床とことば』 TBSブリタニカ 2003.2.17発行 P135) 臨床はホメオパシーに似ている。 主体が対象に働きかけるというのではなく、 対象を自分のなかに入り込ませながら いわばそのダイアローグによって 「自己回復力」を育てていく。 主体が対象に同化するというのはなく、 そこにつくりだされるダイアローグによって それまでカオスであったなかに「距離」が生まれる。 そこには近代合理主義的な主体と対象の二元論はないが、 神秘主義的な同一化というのではない 新たな観点が見出せるのではないだろうか。 それはむしろ神秘学=精神科学に似ている。 認識のために、自分という認識主体を固定するのでも、 一方通行的に対象を見るというのでもなく、 その認識主体そのものの認識の在り方をいわば育てていく。 教える、というのも、 多くはどうしても一方通行になってしまうのだけれど、 それではおそらくなにも教えることができない。 教育とは引き出すことだというが、 さらにいえば、そこにまだはじまっていないダイアローグを 育てていくことなのではないだろうか。 そのために必要な「距離」がある。 意識をリフレクションさせるというのもその「距離」にほかならない。 「聴く」ということの深みと可能性を思う。 |
■「風のトポスノート401-500」に戻る ■「思想・哲学・宗教」メニューに戻る ■神秘学遊戯団ホームページに戻る |