風のトポスノート457 

 

楽しい終末


2003.2.18

 

         自分の生きてきた時代の性格をとらえるのはむずかしい。人は時代の外に
        ではなく、時代と共にでもなく、正に時代の中に生きる。こういう関係で相
        手を内側から認識するのは容易ではない。(…)
         それに、時代とはそこに生まれた者が育ちながら知ってゆくものである。
        われわれは完成された人格として今という時代の中に投げ込まれるわけでは
        ない。時代は人の鋳型であり、時代を認識しようという知的フレーム自体が
        その時代の圧倒的な影響下に構築されるものだ。自分の時代を理解しようと
        いうのは、いわば脳が脳を理解できるかという設問にも似た、自らの尾を噛
        む蛇ウロボロスの試みにならざるをえない。
         それでも、他の時代を生きた人々の証言を参考にしながら、日々の体験を
        時代と世界という二つの座標システムの両方の上に一つ一つ位置づけつつ何
        十年かを生きてくると、やがてこの時代の性格が少しは見えてくる。
         今、その時代像を改めてつぶさにながめているうちに、どうもこれはずい
        ぶん特異な歳月だったのではないかという気がしはじめた。自分の人生を載
        せてきたこの数十年間、こちらにとって最も切実だったこれらの日々は、他
        の時代とは違う種類のものだったのではないか。われわれの世代以前の人々
        は自分たちの生きる時代というものをわれわれとは違う風に受け止めていた
        のではないか。そういう考えが何年か前のある時点で頭の中に宿った。
        (…)
         ぼくは、人類全体が死に絶える日が来るかもしれないと言われつつ育った
        時代に属する。この時代が実に特異で、一見安定しているように見えてもそ
        れ以前の時代とはまるで違う性格を持つものだというのは、つまりこのこと
        である。ぼくが小中学生の頃、目前の脅威は全面核戦争だった。それがどこ
        まで現実的なものだったのか、本当に直前ぎりぎりのところで回避したとい
        う事態が何度あったのか、それはわからない。世論操作によって人に危機感
        をつのらせるのが簡単なように、事実を糊塗してなにごともなかったかのよ
        うに装うのも難しくない。一定量の脅威の雰囲気だけが事実だ。
         次の段階では公害が問題になった。(…)この問題は日本国内では沈静化
        したかに見えるが、全地球的には悪化の一途を辿っている。
         その後はもう一つや二つではない。エイズと、資源不足と、オゾン層破壊
        と、酸性雨と、砂漠化と、人口爆発、南北問題。すべてが互いに関連しなが
        ら人類を包囲し、ゆっくりとその環を縮めているかのようだ。新聞の紙面の
        半分はこういうテーマに関わる文章や写真で埋められている。それがわれわ
        れの日々の生活である。
        (池澤夏樹『楽しい終末』文春文庫/1997.3.10発行/P10-24)
 
世紀末はとうに過ぎ、新世紀が始まってはいるものの、
時代の閉塞状況はますますエスカレートするばかり。
 
たとえば高校生の頃には、
自分が二十一世紀にも生き残っているなど、
想像することさえできなかった。
人類は遅かれ早かれなんらかの理由で滅びるだろうことは
すでに決まっていることであるかのような感覚が常にあった。
その理由はあまりにもたくさんあって、
そのひとつひとつが決定的な理由になってもおかしくはない。
核の問題、環境の問題、人口問題などなど。
 
かつての時代も、自分やその周辺が
破滅的な状況になりかねないという感覚があった時代は
少なからずあったのかもしれないが、
それが地球大のものであるのは
今という時代において初めて得た感覚なのだろう。
 
今という時代を生きているということは、
地球全体の行く末を気にせざるをえないということでもあり、
その終末をほとんど悲観的にならざるをえない形で
意識しないで生きることは難しくなっている。
 
そうしたなかで、地球にやさしく、とかアースコンシャスとかいう言葉で
なにかをどこかですりかえようとしても、事態は変わらない。
デフレ回避や景気の回復が叫ばれるなか、
同時にCO2削減とかいうキャンペーンを張るような
なんだかよくわからない矛盾のなかで立ち往生していたりする。
アメリカはひたすらイラクを攻撃したがり、
日本もその戦争好きに加担したりもするような、
とんだ悲喜劇のような状況さえも目の当たりにしたりしながら、
我々の日常はといえば、日々の生活の糧を確保しようと躍起で、
先行きの不安感ばかりを募らせている。
 
池澤夏樹が逆説的につけている『楽しい終末』というタイトル。
そこには、どうみても悲観的にならざるをえないテーマが
池澤夏樹ならではの静かな理性的な仕方で坦々と語られている。
なぜ「終末」という感覚は決して「楽しい」ものではないのは確かなのだけれど、
時代のある種の行き詰まった状況のなかで、
おそらくこれまでの時代では想定さえしないようなことについて
考え始めることができるということはいえるかもしれない。
 
ひょっとしたらこれまでにもほんの一部の特別な人間だけは
それに似たことを考えることができていたのかもしれないが、
現代という時代に至っては、そうした地球大の終末のことを
数多くの人が意識せざるをえなくなっている。
 
たとえば、秘儀参入というのは、
人類全体が体験することになることを
時代に先駆けて体験するということでもあるのだが、
そういう意味でいえば、この終末感覚なども、
人類全体が体験する必要のある何かなのかもしれない。
 
現代はさまざまなテーマにおいて
かつてはほんのひとにぎりの人間しか
考えたり行動したりできなかったことを
数多くの人間がなしえる可能性が
試される時代であるということもできるかもしれない。
 
もちろんそれは必ずしも善きことだけではなく、
かぎりなく愚かしいことにおいてもいえることなのだろう。
人数が多い分だけ、地球大の振幅がそこには現象化してくる。
 
しかもやはり人は人数が増えれば増えるほど愚かしくなる。
三人寄れば文殊の知恵なのかもしれないが、
実際のところ、ある意味で人は一人のときが一番賢者でいられる。
まして群衆になってくるとそこに働くものは推して知るべしである。
そういう状況のなかで、現代においては何かが試されている・・・
のかもしれないのだ。
ひとりでそうすることはできるのかもしれないが、
果たしてみんなでそうすることができるだろうか、
というより、みんながひとりでありうることができるだろうか、という課題。
たとえばキリストの行為が人類レベルで可能かどうか・・・。
 
そうしたことを考えていきながら、
今地球全体で問題になっているさまざまなことを
あらためて本書『楽しい終末』でおさらいしてみたりするとき、
かなり寒くなってこざるをえないのだけれど、
そうしたことを多くの人々が考えることのできる時代なのだということだけは
あらためて見直してみる価値のあるポイントなのだろうと思う。
 
イラク攻撃をめぐる昨今の話題にしても、
その結果がどうなるかわからないにしても、
これほど多くの人がおおっぴらにブッシュの愚を
笑うことができるという状況。
そこにもなんらかの現代的な「開け」のようなものを垣間見ることができる。
 
人類の未来は決して明るく見えたりはしないけれど、
ただ暗いというのではなく、
そこにはなにがしかの「種」が植えられようとしている。
そのことだけは「楽しむ」ことができるような気がしている。
 


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