風のトポスノート455 

 

運命の目録


2003.2.13

 

         ウソか真実かは知らない。ーーしかし、およそ人ひとりが生涯で出会う
        重大な事件や人の名は、あらかじめその人間が持つ、“運命の目録”に組
        み込まれているのだ、という意見がある。
         つまり、人はすべて気づかずに、心の中に“運命の目録”のようなもの
        を携えて生まれてきて、そこにはこれから彼が出会うことになるあれこれ
        が前もって記されている、というのだ。
         そういった考え方によれば<出会い>とは同時に一種の<回想>である。
        ある時・ある場所で出会うあれこれの事柄は、それがどんなに初めての体
        験と感じられようとも、すでにその人間の心に深く刻まれ、記された事実
        の再現にすぎなくなるからだ。
         もう一度言おう。私はそれがウソか真実かは知らない。だが人間の一生
        には幾度か、それが自らの魂の奥深くにたたみ込まれた記憶の再現としか
        思われぬ、ある瞬間が存在する。そしてその時、人はいつか・どこかで、
        すでに見知っていた特権的な場面へと、否応なく招待されているらしいの
        である……。
        (久間十義『ヤポニカ・タペストリー』河出文庫/P7)
 
運命には、宿命と立命と、そして幾ばくかの偶然が仕掛けられている。
 
人はカルマ的連関のなかにあり、
大河の流れに従ってしか流れてはいけないのだけれど、
その川下りの仕方についてはある程度の自由が許されている。
ときには流れていくのを拒むこともできるだろうし、
上流に向かって泳ぐこともときには可能なのかもしれない。
 
生まれたときにおそらく人は
自分がどのような流れ方をするのか
“運命の目録”をつくっているのだろうけれど、
設計図がそうなっているからといって
そのとおりのものをつくることができるかはわからない。
 
ときおり人は、その目録に記されているもので
とくに大きな項目のところに直面したりすると
なにがしかの衝撃をそこで受けたりもするのではないか。
デジャヴ、既視感とかいわれるもののなかにも
ときおりそうしたものが含まれているのかもしれない。
 
しかしそれらを鮮明に思い出すことはほとんどの場合できず、
自分が果たして“運命の目録”どおりに生きているのか、
それともそれを違えながら生きているのかわからずにいる。
そして、そのわからずにいるというところが
やはりいいのだという気がする。
 
生まれたときから“運命の目録”を前にして
その通りを生きざるをえないとしたらけっこうつらいものがあるだろう。
死んだら自分という存在はただ消えるだけだ。
そう思いながら生きるようなニヒリズムよりも
よほど積極的にニヒルであることが要求されるような気がする。
 
知らないでいることではじめて
人は自由の名のもとに「立命」を歩む可能性に向かって開かれている。
人間が自由の霊であるというのも、
おそらく生まれてくるときに記憶をリセットされているからなのかもしれない。
シュタイナーは、この地球紀の進化が終わったときには
人間の自我には自由はもはやありえないと言うのだけれど、
そのとき人間は常に“運命の目録”を目の前にしているということなのだろうか。
 


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