「美しきもの……」というものは、本来的に言って、またその実物に接する とき、それは決して“美しい”ものなどではない、というのが私の結語であ る。「美しきもの」は、むしろ逆に、私に人間存在というものの、無限な不 気味さを、まことに、不気味なまでに告知をしてくれたものであった。 (堀田善衛『美しきもの見し人は』朝日選書535 1995年9月25日発行/P284-285) 私はなぜ美しいと感じるのだろうか。 美しいと感じることを求めたりするのだろうか。 それは、橋本治が『人はなぜ「美しい」がわかるのか』 (ちくま新書377/2002.12.20刊)で、次のようにべているように 「美しさ」というものが最初からあってそれにふれたい、というのではない。 黄金分割だから美しいとか、誰もが美しいと感じるはずだというのではない。 また、美しさの感じ方は時代とともに変わっていくので、 相対的にしかとらえることができないというのも、どこか違う。 それは時代のなかでの「美しさ」を固定的にとらえてしまっているだけだから。 「人はなぜ“美しい”がわかるのか?」と考える私は、「人はなぜ“美しさ” が分かるのか?」とは考えません。だから、『人はなぜ「美しい」がわかるの か?』という、いささかややこしいタイトルになります。 なぜそんなことをするのか?それは私が、「人は個別に“美しい”と思われ るものを発見する」と思っているからです。 「美しさが分かる」だと、分かるべき対象の価値が、もう固定されているよう な気がします。(P8-9) しかし、堀田善衛の最初の引用のように なぜ美しきものが、人間存在の無限な不気味さを告知することになるのだろう。 「美しい」という感情は、そこにあるものを「ある」と認識させる感情です。 「美しい」と思わなければ、そこにあるものは、「なくてもいいもの」なので です。(…) でも、自分にとって意味のあるものを見つけ出した時、「ある」という感情は 「美しい」と一つになります。「美しい」という感情は、そこにあるものを 「ある」と認識させる感情で、「ある」ということに意味があると思うのは、 すなわち「人間関係の芽」です。 「美しい」は、「人間関係に由来する感情」で、「人間関係の必要」を感じな い人にとっては、「美しい」もまた不要になるのです。 もちろん私の話は単純じゃないので、「豊かな人間関係が人の美的感受性を 育てる」なんていうところには行きません。それを言うなら、「豊かな人間関 係の欠落が人の美的感受性を育てる」ですが、これでさえまだ不十分です。私 の言うべき結論は、「豊かな人間関係の欠落に気づくことが、人の美的感受性 を育てる」です。(P173-174) そこにあるものを「ある」と認識させる感情…。 その意味では、「そういうものだ」「あたりまえだ」からは、「美しい」は出てこない。 しかし、そこにあるものを「ある」と認識させるということからいえば、 「美しい」は「醜い」や「不気味」と常に接しているのかもしれない。 だからこそ、「美しきもの」のことを考えようとするならば、 人間存在を「そういうものだ」から引き離さざるをえなくなる。 そういうことをあれこれとおりにふれて考えているときに、 応仁の乱の時代にあの「わび」の美学と深く関わった 足利義政の美意識のことをあらためて見直す機会を得た。 (ドナルド・キーン『足利義政/日本美の発見』中央公論新社) 「円満完全の美よりも不完全の美を高次のものとする」ともいえるだろう美意識。 なぜ「侘びしさ」や「寂しさ」につながるものを洗練された美意識とするのか。 「心くまなき月」よりも「かたむく月のかげをしぞ思ふ」のか。 私たちは光を肉眼で見ることはできない。 見ているのは光を当てられた物であり、その色を光を通して見ている。 そういう意味では、かたむく月や雲に隠された月のほうに、 むしろその光を意識的に見ることができるのだともいえるかもしれない。 影のないように見える「円満完全の美」はむしろその欺瞞を隠している。 決して見てはいないものを見ているように錯覚させてしまうのだから。 橋本治が「豊かな人間関係の欠落に気づくことが、人の美的感受性を育てる」、 というふうにいうのも、そういう欠落への意識化によってしか、 美意識というものを持つことはできないということかもしれない。 「美しさ」を固定化、権威化し、価格でそれを表現しようとさえするような在り方は、 美意識とは逆のものにすぎない。 そこにあるものを「ある」と認識させるというよりも、 それを最初から「そういうものだ」としてしまう感情。 そうした感情で生きることのほうが処世術的には確かなのかもしれないし、 「美しい」も必要とはされず、 「侘びしさ」や「寂しさ」を美意識にすることはないのだろうが、 やはり私は「美しい」をわかりたいと切に思う。 |
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