記憶だとか、頭脳だとか、そういうことばが機械についても無神経に 使われるものだから、人と物との間の境がだんだんなくなるような錯覚 におちいるのだろうが、人間の能力などというものは、機械に代えられ てしまうほど安直なものではない。いままで人間がやっていたはたらき のうちで、機械にやらせるほうが便利で速いものはいくらでもあるから、 それはそうすればよい。それは、人間がいわばばかばかしいことをして いたのを追放するということなのであって、人間性を高めこそすれ、人 間の魂を機械に売ってしまうことではない。またそんなことができるは ずのものでもない。 こんなことは、わかりきったことのように思うのだが、どうも世の中 の俗説では必ずしもそうではなく、人間が逆に機械に命令されているよ うにしか考えられない場面にしばしば出あうのは、残念なことである。 (坪井忠二 1962年2月、人事院月報より 随想全集8 所収/尚学図書 昭和44年6月5日刊) 鉄腕アトムは今年の4月に生まれたことになっているらしい。 鉄腕アトムは科学の子。 また、今週はNHKで放送50年を記念した 「プレイバックTV50」が放送されている。 そういえば、ぼくはテレビと都合40年近く付き合ってきたことになる。 鉄腕アトムの放送もリアルタイムで見ていた。 ♪〜星を超えて、ラララ星の彼方〜♪ 今やインターネットで映像が見える時代にさえなっている。 この変化にリアルタイムにつきあうことのできる時代に生きているのだ、 ということを実感せざるをえないところがある。 上記の随筆が書かれたのは1962年。 事態はここに書かれていること以上に かなり残念なことになりかけているような気がする。 シュタイナーは、アーリマンは書くのです、と語り、 ラジオ放送なども嫌っていたというが、 現代という時代は、アーリマンは書き、演奏し、撮影する時代。 科学技術は、「世の中の俗説」では、新興宗教以上のものというか、 事実上、世界でもっとも信仰を集めているものとなっているように見える。 そういうなかでどう生きるか。 アーリマンは書くのです、といいながら シュタイナーも書き、かつ語りつづけ、 その記録は膨大な書物になっている。 つまりは機械に代えられないもののことについて 常に意識的であるということなのだろう。 たとえば宇宙が渦をまいているのを証明しようとするときに、 その渦を巻かせているその「手」をしっかり見ておくということ。 技術というのもその「手」がなければ何もはじまらない。 「科学の子」になったとしても、アーリマンの子にはならないで、 精神科学の子になること。 科学の子と精神科学の子の溝が広がっていくか埋まっていくか。 今同時代において起こっているさまざまが 混沌のための混沌ではなく、 その果てに清水を得るためのものであらんことを。 泥から伸びて咲く蓮の花にならんことを。 |
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