風のトポスノート451 

 

なぜ私は世界にひとりしかないのか


2003.1.30

 

        「なぜ私は世界にひとりしかないのか」を問うとき、この<自分>は、
        世界に埋没して存在するのではなく、唯一性を反省する限りで、その
        唯一性が意味を持つような存在者としてある。求められている唯一性
        とは、唯一性を考える唯一者のうちに現われてくる唯一性なのである。
         簡単に言ってしまえば、「なぜ私は世界にひとりしかないのか」と
        いう問いの答えは、その問いを行なっていることそのものなのである。
         ライプニッツの思想に基づいて、「なぜ私は世界にひとりしかない
        のか」という問いに答えるとすれば、正面から答えてはいないのだが、
        「<自分>とは謎(enigma)である」ということになると思う。そし
        て、これがこの本のモチーフである。ライプニッツのテキストに書い
        てはいないと思うが、彼のテキストの裏側に透けて見えたのはそうい
        うメッセージだった。
         謎において重要なのは、答えではない。答えを求める方法・過程と、
        問いそのものを成立させている条件を問うことが重要だ。哲学的問い
        は、ほとんどすべてが<謎>の形式になっている。答えを得て、分か
        ったという人間は、その問いをまったく理解していないことが判明す
        るだけだ。<謎>は<謎>のままであり続けるべきだ。<自分>が
        <謎>ではなく、<謎>が解明されてしまうのは、<謎>を問う人間
        が存在しなくなったときである。
        (山内志朗『ライプニッツ』シリーズ・哲学のエッセンス
         NHK出版/2003.1.25発行 P108-109)
 
人間というのは謎を生きる存在である。
自分が自分であるということを問い続ける存在。
それはまた矛盾を生きるということでもある。
 
私が私であるということ。
私といえるのは私にとって私だけであること。
なぜ、私は私といい得るのだろう、言おうとするのだろう。
 
私は私であるというのは
どこにも持っていきようのないもので、
私はという存在とその対象である存在とが同一でありながら、
かつそこに無限の謎、矛盾が存在している。
 
私があるというためには
他者の存在が必要なのだろうか。
たしかに私の意識のなかでは
さまざまな他者が跋扈しかつ対話がなされている。
バフーチンのカーニヴァルのように。
それは他者なのだろうか、それも私なのだろうか。
そんなことをふと考えたりもする。
 
私が鏡の前にいて私を見ている。
私は鏡の前の私の視線を感じる。
その視線はいったい誰の視線なのだろうか。
 
私はモナド、一個の摩尼宝樹なのだろうか。
世界が私というモナドに映し出される。
映し出された世界が私のなかでカーニヴァルする。
 
「なぜ私は世界にひとりしかないのか」
おそらくそれは私が私を問い続けるからなのだろう。
だから私は自分を知らないということだけを知っている。
自分を知らない私が私であるという、その矛盾のなかで、
私は一個のモナドである。
 


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