「なぜ私は世界にひとりしかないのか」を問うとき、この<自分>は、 世界に埋没して存在するのではなく、唯一性を反省する限りで、その 唯一性が意味を持つような存在者としてある。求められている唯一性 とは、唯一性を考える唯一者のうちに現われてくる唯一性なのである。 簡単に言ってしまえば、「なぜ私は世界にひとりしかないのか」と いう問いの答えは、その問いを行なっていることそのものなのである。 ライプニッツの思想に基づいて、「なぜ私は世界にひとりしかない のか」という問いに答えるとすれば、正面から答えてはいないのだが、 「<自分>とは謎(enigma)である」ということになると思う。そし て、これがこの本のモチーフである。ライプニッツのテキストに書い てはいないと思うが、彼のテキストの裏側に透けて見えたのはそうい うメッセージだった。 謎において重要なのは、答えではない。答えを求める方法・過程と、 問いそのものを成立させている条件を問うことが重要だ。哲学的問い は、ほとんどすべてが<謎>の形式になっている。答えを得て、分か ったという人間は、その問いをまったく理解していないことが判明す るだけだ。<謎>は<謎>のままであり続けるべきだ。<自分>が <謎>ではなく、<謎>が解明されてしまうのは、<謎>を問う人間 が存在しなくなったときである。 (山内志朗『ライプニッツ』シリーズ・哲学のエッセンス NHK出版/2003.1.25発行 P108-109) 人間というのは謎を生きる存在である。 自分が自分であるということを問い続ける存在。 それはまた矛盾を生きるということでもある。 私が私であるということ。 私といえるのは私にとって私だけであること。 なぜ、私は私といい得るのだろう、言おうとするのだろう。 私は私であるというのは どこにも持っていきようのないもので、 私はという存在とその対象である存在とが同一でありながら、 かつそこに無限の謎、矛盾が存在している。 私があるというためには 他者の存在が必要なのだろうか。 たしかに私の意識のなかでは さまざまな他者が跋扈しかつ対話がなされている。 バフーチンのカーニヴァルのように。 それは他者なのだろうか、それも私なのだろうか。 そんなことをふと考えたりもする。 私が鏡の前にいて私を見ている。 私は鏡の前の私の視線を感じる。 その視線はいったい誰の視線なのだろうか。 私はモナド、一個の摩尼宝樹なのだろうか。 世界が私というモナドに映し出される。 映し出された世界が私のなかでカーニヴァルする。 「なぜ私は世界にひとりしかないのか」 おそらくそれは私が私を問い続けるからなのだろう。 だから私は自分を知らないということだけを知っている。 自分を知らない私が私であるという、その矛盾のなかで、 私は一個のモナドである。 |
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