風のトポスノート450 

 

見えて興ざめするもの・見えて謎がでてくるもの


2003.1.21

 

        十文字 いま、自分で
            いちばんだいじにしているというか、
            価値があるものだなぁと思っているのは、
            「偶然」なんですよね。
            (…)
        十文字 どんなやつでさえ、
            「自分で考えたもの」というのには
            やっぱり限界があって、
            その考えの範囲をわかった瞬間に、
            もう、おもしろくなくなっちゃうんです。
            だけど、偶然っていうのは、そうではない。
            (…)
        糸井  タネとしかけのあるものっていうのは、
            タネとしかけがわかったら、
            「もう、いい」んですよねぇ。
        十文字 そうだね。
 
        (『十文字美信的世界』 第8回 生まれたものには価値がある。
         ほぼ日刊イトイ新聞 http://www.1101.com/jumonji/index.html)
 
哲学とは驚きであるとかいわれることもあるけれど、
思いもかけずフェイントのようにやってくるものには力がある。
 
結果が見えて安心できるというのは
精神衛生上いいかもしれないけれど
それだけだとそのうちうんざりしてしまう。
 
思うに、わかってしまうとおもしろくなくなるものと
わかったからこそおもしろくなってくるものとがあって、
タネとしかけが見えてしまうものというのはやはり
それが見えてしまうと興ざめになってしまう。
最初は魅力的に見えていた人が、急に色あせて見えることもあるが、
それも「タネとしかけ」が見えてしまうからなのかもしれない。
(投影していた謎のようなものが謎として働かなくなるということ)
 
でも、わかったと思っても、その「わかった」が次々とさらなる謎をはらんでいき
決してその「わかった」が静止してしまわないものはおもしろさを失わない。
神秘学とか芸術などにはそういうおもしろさがあるように思うし、
もちろんそういう魅力的な人も確かにいる。
 
ところで、この引用にあるように、
自分の「考え」の枠組みとかが見えてしまうと、
それに自分で興ざめしてしまうことはよくあって、
そうなってしまうとほんとうに「もう、いい」という気分になってしまう。
ここでこうして書いていたりすることも、
最初はほとんど何も考えずに書いているうちはいいのだけれど、
先が見えてしまうととたんに興ざめしてしまうことがある。
やれやれ。
 
だから、こうして書いていることに
なにか結論じみたことがでてしまうとちょっとつらくなる。
できれば、こうして書いていくプロセスが、
たとえば山でも歩いているような感じだといいかなと思う。
頂上にたどり着くこともひょっとしたらあるかもしれないけれど、
山を歩くのは別に頂上にたどり着くためのものであるということはできないから。
そして途中で不思議な石や虫や鳥、樹木などに出会ってうれしくなるというのがいいから。
 


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