風のトポスノート449 

 

キャンプ


2003.1.21

 

        キャンプとは、説明をしようとすればそれにまるごと裏切られるかもしれない
        ような、名状しがたい感覚のことである。
         しかし、だからといって、それがキャンプだと感じることができなければ、そ
        れを賞味もできなければ感想をもつこともできない感覚の様式のことである。だ
        って鮭茶漬とはそういう食べ物であり、ジャン・ジュネとはそういう作家であり、
        マレーネ・ディートリッヒとはそういう女優なのである。われわれは鮭茶漬と思
        って鮭茶漬を食べ、ジャン・ジュネを読むつもりでジュネを読む。
         このキャンプな感覚を、ソンタグが次から次へとみごとに言葉にしていく手際
        は、まことに胸がすく。その言葉(言葉のスタイルによって選ばれた言葉)はキ
        ャンプを越えているし、どんな非キャンプ的な隊列をも打倒しているし、それば
        かりか、これはキャンプのことではなくてオスカー・ワイルドの本質かティコ・
        ブラーエの天体観測計画か、あるいは小津安二郎の小物のすべての描写なのかと
        思わせるほどなのだ。
         少しだけ紹介しよう。
         キャンプとは様式化の度合いなのである。事物や人物に見いだせるスタイルの
        特質なのだ。それでいて批評を成立させないスタイルの感覚なのだ。だから「こ
        れはできすぎてキャンプにならない」ということを成立させる感覚様式なのだ。
         つまりキャンプとは、スタイルを基準にして見た世界のヴィジョンの断片であ
        って、それゆえそこからはどんな多義性もどんな両性具有性も、またどんな変更
        をも許容する編集可能性がかいま見えているはずの様式感覚なのだ。
         だからキャンプの奥の奥は純真なものでできているはずで、そうだからこそい
        つでも不純なフリが効き、一見して、それはできそこないかもしれないという保
        留をもたせる、つまりは極度に過敏なスタイルなのでもある。
         そういうわけで、「ものは古くなったときにキャンプ的になるのではなく、わ
        れわれとそのものとのつながりが弱くなり、そこで試みられていることが失敗し
        ているのに、われわれが腹を立てず、むしろそれを楽しむようになったとき、そ
        こはキャンプ的になる」。いいかえれば、キャンプはそいつの「性格」が好きだ
        とか、わかるということなのだ。
         だからキャンプは趣向であるからこそ思想よりも雄弁であり、選択であるから
        こそ主題より速度に富んでいる。つまりは、用意周到とはかぎらないくせに、つ
        ねに用意周到と思わせてもおかしくない存在の意志を感じさせるスタイルのこと
        なのである。
         だいたいこれで察しがつくだろうが(察しがつくのはかなりキャンピーなこと
        だが)、キャンプとはようするにぼくがおもしろがってきた、あの「数寄」なの
        だ。
        (…)
         ぼくにスーザン・ソンタグのことを最初に教えてくれたのは武満徹さんである。
        「あんな人は見たことがない。あんなに頭のいい人と会ったことがない」という
        イントロダクションだった。
        (松岡正剛の千夜千冊 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya.html
         第六百九十五夜【0695】2003年01月20日
         スーザン・ソンタグ『反解釈』1971 竹内書店新社・1996 筑摩書房)
 
ぼくが小さい頃からなんとなく感じていたことは、
人と人とははほんとうはわかりあえるはずだ、ということだった。
 
当然のごとく、人と人とはわかりあえないことばかりで
ぼくのまわりではそれを証明するようなことばかりが起こっていたにもかかわらず。
というか、だからこそ、だったのかもしれないのだけれども。
 
そしてその後、その人と人がわかりあえるというのは、
本来そのはずなのかもしれないけれども、
実際の現象とは惑星間ほどのギャップのようなものがあるというふうに
ぼくのなかでは修正されてくることになった。
 
しかしときおり、ごくごく稀なことではあるのだが、
その間を光のような速度かそれよりももっと早い速度で
交感できることが確かにあるような気のするときがある。
それはある種の存在の香りのようなものをかぎ分けるようなものなのかもしれない。
もちろんそれは人だけではなくあらゆる事物にもあてはまることで
それがかぎわけられないかぎりそれはこちらにはやってこない。
 
感覚どうしを超えた統合的な共通感覚のようなものだともいえるのかもしれない。
なぜその形がそういう香りや色としてやってくるのか
はっきりとはわからないのだけれどたしかにそうであるものがある。
それを統計的に証明しようとしたり社会学的に証明したりしようとしても
徒労でしかないようなそんな共通感覚。
 
それがそれである、ということがわかる。
その存在の意志のスタイルがわかるということ。
そして、それがそれである、ということを共有できているという直観。
 
しかしそのスタイルがわからなければ、百万言費やしたところで空しくなる。
それがそこにあるということがわからない。
むしろわかりたくはない、ということかもしれない。
おそらくそこには、ある種のアダプター的なものが必要で
たとえとしてはあまりに単純すぎるけれども
パソコンに外部機器を接続させてそこからデータをとりこもうとしても
それをつなぐコネクタが合わなかったり、
コネクタがつながったとしても、対応ソフトがないというのにも似ている。
 
人と人が、人と事物がわかりあえるためには
必要な接続コードや対応ソフトが必要だし、
仮にデータを読み込むことができたとしても
その言葉がわからなかったり、
たとえ読めたとしてもその意味やプラグマティックな意味が伝わらないこともあり、
伝わったとしてもそれが嫌だということもある。
 
そういう困難の山坂を超えて、こちらにやってくる何かがあるということを
少しでも実感できるとしたら、それだけで人は生きていくことができる。
 
ちょっと「キャンプ」とはズレた話になったかもしれないが、
「キャンプ」のことを読みながらそんなことを思ったりもした次第。
 


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