風のトポスノート447 

 

愛と経済


2003.1.18

 

         今日の生活の合理性の基盤をつくりだしているのが、経済であるように見えて
        いても、それはまったく真実ではありません。経済現象のもつ合理性は、表面に
        あらわれた偽りの顔にすぎません。合理性をそなえたいちばん表面に近い層を、
        いわば表の顔として、経済は暗い生命の動きにまで奥深く根を下ろした、一つの
        「全体性」をそなえた現象なのです。そして、その全体性のうちの深層の部分で、
        私たちが「愛」と呼んでいるものと融合しあっています。なぜなら愛もまた、欲
        望の動きをとおして、わたしたちの世界にあらわれてくるものだからです。
        (中沢新一『愛と経済のロゴス』講談社選書メチエ260
         2003.1.10発行/P13)
 
シュタイナーは、社会有機体三分節化において、
経済における友愛ということをいっているが、
シュタイナーが経済について語っていることは
じっさいのところよくわからないところが多い。
 
経済における友愛を経済において私的所有をなくす、
というふうに短絡的にとらえてしまったとしたら、
少なくとも現代においては混乱を招くだけではないだろうか。
そういう集団の試みがないではないが、
それはおそらく何が大事なものを
スポイルしてしまうことになりかねないように思う。
 
重要なのは、やはり経済とはいったい何か、ということを
その根源においてほりさげてみることなのではないのだろうか。
 
私たちは、たとえばお金をもってお店にいって、
なにがしかの金額と引換に商品を買うということを
ごくごくあたりまえのこととして行なっているが、
このお金と商品を交換するということをあらためて考えてみるだけでも、
そこにあるものはそんなに単純なものではないことに気づくことができる。
商品には値段が決まっていて、その値段分のお金を払ってそれを買う。
しかしなぜそのように商品とお金が交換されるのだろう。
 
かつて最初に市場ができたのは、聖地の近くであったらしい。
そうすることで、商品に結びついているその所有者の人格が取り去られ、
いわば人間社会を超えた神仏の所有物となり、
そのことではじめて交換される商品となったわけである。
そうでなければ、あるものが商品となることはできず、
それはつねにそれを所有している人の人格とともにあるものでしかなかった。
 
市場はやがて、聖なるものである性格を捨象していくことになり、
果ては、現代のように、お金そのものが商品となり果て
限りない狂騒のマネーゲームの現状とは相成っている次第。
 
今ふと思い出したのだけれど、聖書のなかで、
イエスが神殿で暴れたことがでてくるが、
それは神殿で商売をしていることに対してだった。
神殿で商売が行なわれていること、
それに対してイエスが異議を唱えた?ことについても
いろいろ考えてみる必要があるのかもしれない。
 
ところで、たとえば、与えるものだけが与えられる世界があるとする。
その世界では、いわば愛多き者がもっとも愛を与えられる者となる。
与えることができない者はどんどん貧しくなっていく。
そういう世界があるとすれば、
まさにシュタイナーのいう経済における友愛こそが
もっとも有効な行動原理になるのだろうが、
現代において経済活動が行なわれる場所は、神殿ではない。
聖なるものがそこではスポイルされてしまっている。
お金は容易に黒魔術化してしまう。
 
この『愛と経済のロゴス』では、
経済を「交換」の原理からだけではなく、
「贈与」、「純粋贈与」という原理と結び合った
全体性をもった運動としてとらえようとしている。
おそらくそうすることではじめて、
シュタイナーの示唆した経済における友愛にも
光を当てることができるのかもしれない。
 
愛は欲望でもあり、渇愛であるともいわれるが、
それはまたイエスの説く愛ともなり得る。
同様に経済は欲望でもあるが、
またそれは深い「愛」の可能性そのものでもあるのではないだろうか。
 


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