風のトポスノート446 

 

越境


2003.1.12

 

         ところで、これはランボオの問題でも日本の知識人の問題でもなく、ぼく自身
        の「20歳の問題」になるのだけれど、1964年の日本青年であったぼくにとって
        は、ランボオを使ってでも見通しをつけなければならないことが、少なくともひ
        とつはあったのである。
         それは、社会がこれみよがしに表明していることのすべてが欺瞞だと見破る決
        断に、自分をどれほど長期間おいておけるかということで、それには社会を変革
        するためのエネルギーの大半が嘘っぱちであることを実感することと、それにも
        かかわらずその変革のエネルギーを何かに転化しないではいられないことを、ど
        うしたら形にできるのかということだった。
         だからこそ、パリ・コミューンの無益を体験したランボオが、詩を捨てて世界
        交易に立ち向かっていたことをどう解釈するかは、とんでもなくクリティカルな
        問題になりつつあったのだった。
         しかし、こういうランボオ解釈も、結局はむなしいものだった。それは、ぼく
        が日韓闘争を進める学生運動の小さなリーダー(第一文学部議長)の一人であっ
        た当時の、何をやっても目の前の社会など変わりはしないのだと日々実感してい
        たことに似て、ある「行為の思想」に思い至らないかぎりは、けっして解決つか
        ない問題だったのである。
         (…)その「行為の思想」とは、いまならそれが何であるかということをはっ
        きり指摘できるものである。それは「越境」ということだった。
         ぼくにとっての「越境」は国境を越えることではない。自身の存在の領域から
        発して、つねに“近く”に向かって越えようとしていること、それがぼくにおけ
        る越境である。
         したがって、このような「近さに向かっての越境」は、それを心掛ければ心掛
        けるほど、ぼくの思想の内側に無数の外部性や異質性が芽生えうる隙間をつくっ
        ていく。ぼくは、ここにいるよ。けれども、ほら、ぼくのここにはどんなものも
        入れるよ。そういう場所を存在がつくりつづけること、それが越境なのだ。
         これは明治のランボオが点火しようとしたイリュミナシオンとはまったく逆の
        方法である。そして、このことに気がついたことが、ぼくをしてランボオから離
        れさせることにもなったのだった。
        (松岡正剛の千夜千冊 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya.html
        第六百八十九夜【0690】2003年01月10日
        0690  『イリュミナシオン』アルチュール・ランボオ)
 
人は「近さに向かっての越境」をしないためには、
たいていのことはできてしまうものだ。
 
自分のなかに、自分のもっとも近いところに
深淵のように裂けている異質なもの、
それをみることで途方もなく混乱してしまうもの、
自分が自分でなくなってしまいかねないもの、
そうしたものを見ざるをえないくらいなら、
代わりに、社会を変えようだとか、いうのは、
自分を変えないですむ分だけ混乱しないですむということである。
 
「近さに向かっての越境」は、
自分という存在を混乱させないではいない。
自分が自分でありながら、
その場所を危険にさらし続けることにほかならないのだから。
 
ぼくの場合は、松岡正剛の世代のもっていたような
賛成の反対!的な社会変革的狂騒からは離れはじめていて、
いわゆるシラケのほうが勝っていたので、
むしろ、そうした社会を変えよう!プロパガンダに対しては
胡散臭さのほうを感じていた。
しかし、だからといってどうすればいいというのもなく、
とりあえずは、群れないこと、群れることで安心しないことのほうに
日々の自分の態度を向ける以外になかったのである。
 
群れないこと。
それは今でも変わらずぼくの基本的スタンスになっているのだけれど、
だからといって、それだけではどうしようもない。
孤立するのはとくにどうということもないのだけれど、
それでは自分をどうしようもなくなってしまう。
 
そのなかでとった方法というのが、
ここで「越境」、「近さに向かっての越境」に近いものだったのではないか、
と、今回の「松岡正剛の千夜千冊」を読んで思った。
 
決して群れないが、自分を変容させるものをつねに自分の領域に採り入れ続けること。
しかもそれは自分をもっとも脅かす可能性をもった
もっとも近いところにあるものであること。
ネットでのネットワークの理念というのも、
そうした在り方を必要としているのではないかという気がしている。
そうすることで、馬鹿馬鹿しいばかりのフレーションも起こらないだろうし、
自分という存在を「越境」していくことも刺激的に可能になってくるように思う。
 


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