風のトポスノート445 

 

味覚のアナロジー


2003.1.2

 

         これはまったくの私見なのだが、世の中の事柄というのは大別すると
        七つの概念に分類できると思う。それはすなわち、甘いか、しょっぱい
        か、酸っぱいか、苦いか、渋いか、辛いかーーそういう印象で分けるこ
        とができると、私は考えている。
         そう、要するにこれは味覚を、その他のことにまで広げてみるという
        感覚なのだが、これがなかなか面白い。甘い印象の人としょっぱい印象
        の人は相性が悪いようで、実は“甘辛”というどちらにもバランスの良
        い味がある。酸っぱさと甘さというのも、うまく配分すれば暑いときに
        食べるものとしてとてもいい感じになる。そう考えていくと、この世の
        すべてを“味わい”というもので割り切ることが、わたしにとってはと
        ても自然な感覚になっているのだ。
         そして、味わいには味覚だけでなく、皮膚感覚というのも重要な要素
        である。そう、熱いか冷たいか、それは味わいにとって大きな意味を持
        っている。まず冷たかったり熱かったりすると、味を感じるのが遅くな
        ってしまうものだ。
        (上遠野公平『海賊島事件』講談社/2002.12.15発行 P31)
 
これもまったくの私見なのだが、
感情をこうした味覚のアナロジーでとらえてみることもできると思う。
そして感情の発達度合いというのも、
そうした味覚をどれだけ深く受けとめられるかによって測ることができる。
 
子供の頃は、やはり甘さが中心になり、
それ以外の味覚はそれに対する添え物、もしくは敵対するものになる傾向がある。
それが次第に、辛さもほしくなったり、
やがて渋さや苦さを美味しいと感じたりもできるようになる。
とはいえ、ひとにより味覚の志向はさまざまで、
子供のときのままの味覚をずっと持ち続ける人もある。
 
感情も同様で、感情の懐の深い人、感情を深く理解できる人というのは、
そうしたさまざまな味わいの違いやバランスなどを
じっくり味わえる人なのだということもできるだろう。
 
しかし感情的な人といわれる人は、
感情を深く理解できるというのではなく、むしろその逆で、
むしろ感情の機微を理解できないがゆえに、
たとえば甘くないものを美味しくないと短絡的に感じるような
そうした味覚の持ち主のようなものではないのだろうか。
色彩でいえば、白か黒かしかわからないとか(二階調)、
赤と緑しかわからいとか(一補色関係のみに短絡的に反応)とか
そういうあり方でもある。
つまり、あれかこれかでないと存在していないことになる。
それ以外ではセンサーが反応しない。
 
このことは、感情だけではなく、思考や意志についてもいえることで、
その立体的な陰影がどれだけ認識できるかということによって、
その人の思考や意志の深みというのが変わってくるのではないだろうか。
 
さらにいえば、感情、思考、意志というのは、
同じ魂の幾何学系の違った側面に過ぎないのであって、
その作り出す幾何学的立体のバランスというのが、
その人の魂の形を決めているということもできるのかもしれない。
 
それぞれの側面には、可能性として無限の味覚の段階があり、
甘辛や甘酸っぱさといった対立関係にある味覚の調和など、
さまざまな関係性を楽しむことができる。
 
魂というのは、いわば霊と体とを結ぶもの。
その結ぶものをどれほど豊かにできるかということは
そのようにどれだけ味わいの機微がわかるかということでもあるように思うのである。
 


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