中学一年生か二年生のとき芥川龍之介の『珠襦の言葉』を読んで、大正天皇 についての当てこすりや軍人に対する皮肉に出会ったとき、僕が衝撃を受けた のは、ついこのあいだまではこんなに自由だったのかということでした。芥川 の警句の内容それ自体はなかったような気がしています。警句そのものはあま り面白くなかった。 しかも、自分の頭でものを考えるということを抑圧した時代でした。何も考 えさせまい、考えることを禁止するという風潮が極めて強かったんですね。だ から、本を読むのも禁止。ぜんぜんダメというのではないけれど、奨励されな い時代だった。本を読めば、誰だって、何らかのことは考えるわけですよね。 ところが、ほら「本を読むと赤くなる」とか、そういうことを平気で言ってた わけだから。 最近よく「活字離れを憂える」なんて言うでしょう。まるで、昔の日本人は ずいぶん本を読んでいるような感じだけど、僕は、「嘘つくのもいい加減にし ろ」と言いたくなるんですよ。ついこのあいだーー五十年前まで、本を読むこ とをあんなに禁止してたじゃないか、と。 (丸谷才一『思考のレッスン』文春文庫2002.10.10/P21-22) そういえば、「活字離れ」と言われはじめて久しい。 この「活字離れ」というのは、いつから言われ始めたのだろうか。 「活字」が「離れ」てないときというのはいったいいつのことなのだろうか。 やはりこういうもっともらしい言い方がでてきたとき、 またそれがなぜかあたりまえのようにいわれるようになったとき、 その前提にされているだろうことを疑ってみる必要がありそうだ。 そうでないと、まったく根拠のないものに前提があるように思い込み、 その思い込みからまた新たな思い込みがでてくる恐れがあるだろうから。 そうした思い込み、みんながそういっているからそうなのだろう、とか、 疑いさえしなくなっていることとかを、機会があるたびに、疑ってみないと、 そうしたことが積み重なってとんだ妄想が実体化されてしまうことになる。 世の中はそういう妄想で動いているところがあって、 そういう人が集団になるととんでもないことになる。 そういう意味でも、たとえば、日本的とか伝統とかいわれているものにしても、 いったいそれがなぜ日本的なのか、 それはったいいつ頃にでてきたものなのか、など ちゃんと検証してみることなども必要になってくるのだろう。 要は、「自分の頭でものを考える」ということが 「思考のレッスン」の前提となるということ。 そのためには、さまざまな「俗説」を信じ込まないことから はじめてみる必要があるということなのだろう。 |
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