風のトポスノート440 

 

ひきこもれ


2002.11.28

 

        「ひきこもり」はよくない。ひきこもっている奴は、何とかして社会に
        引っ張り出したほうがいい。ーーそうした考えに、ぼくは到底賛同する
        ことができません。
         ぼくだったら「ひきこもり、いいじゃないか」と言います。世の中に
        出張っていくことがそんなにいいこととは、どうしても思えない。
        (吉本隆明『ひきこもれ/ひとりの時間をもつということ』
         大和書房 2002.12.10発行/P19)
 
「ひきこもり」という言葉は、
いったい誰がいつごろから使い始めたのだろう。
「ひきこもる」という言葉は以前からあったと思うのだけれど、
現在、流布しているような意味でかなり否定的に使われる
「ひきこもり」が使われるようになったのは、
比較的最近のことではないか。
 
以前、「ネクラ」と「ネアカ」という言葉が
使われていたこともあったけれど、
そのときにも、「ネクラ」は
かなり否定的にとらえられていたように思われる。
 
ぼくはやたら干渉してくる先生方に辟易したのもあって
幼稚園を逃げ出してしまったのだけれど、
学校というのは、ひとりで自分なりの価値判断で
教師の理解できないであろう何かをするということを
危険視する傾向にあるように思う。
それは一般の世の中でも同じ。
ほうっておくとろくなことはしない、
という性悪説的な見方で、
「みんなでいっしょに」という価値観を強要する。
 
吉本隆明も「ぼくもひきこもりだった」ということから、
『ひきこもれ/ひとりの時間をもつということ』
という著書で、「ひきこもり」の重要性を語っているので、
状況が許せば「ひきこもり」になるであろうぼくとしても、
最近の「社会にでる」とか、「ひとりでいないこと」とかいう
なんだか妙な(としかぼくには思えない)価値観を絶対化しようとする傾向に対して
少しばかりコメントしたくなった次第。
 
やはり、「ひきこもり」でなければ、
決して得られない側面のことを
もっと考えてみる必要があるのではないだろうか。
 
少し前から、堀田善衛のモンテーニュに関する三部作
『ミシェル城館の人』というのを読んでいるのだけれど、
このモンテーニュというルネサンスの代表のようにいわれる人も、
「城館」のなかで「ひきこもり」をして思索したひと。
ひとりで「ひきこもり」をして考えるとかいうことは
当時においてはかなり異常なことだったようだけれど、
このモンテーニュの時代から後になってようやく、
人はいわば自分との対話という在り方をするようになった
というところもあったようである。
 
最近のように、マスメディアが発達し、キャスターなどもあふれ、
テレビがあたりまえのように出たがり人間を垂れ流すようになってくると、
マイクをもってしゃばりまくるような在り方のほうを
当然のように見せてしまうところがあったりもするのだけれど、
少し考えてみるだけでも、そうした在り方やその能力もかなり特殊なものだし、
そういう価値観に引きずられてしまうのは
かなり危険なことだということがわかるのではないのだろうか。
 
「ひきこもり」というような
だれかが特定の意味合いで意図的に使おうとしているかのような
そうした言葉の使い方に対して、
もっと意識的である必要がるように思う。
ある状態を表わしている言葉であるとしても、
それに善悪に近い価値観を付加して使ってしまうのは、
とくにマスコミの無差別的な影響の強い現代においては、
すぐに新たな魔女狩りを生んでしまうことになるだろうから。


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