風のトポスノート439 

 


2002.11.25

 

パウル・ツェランの詩『閾から閾へ』とその翻訳について。
その翻訳には、「門」(モンガマエ)のついた七つの漢字、
閾、門、聞、開、間、閃、闇が使われている。
 
多和田葉子の「翻訳者の門ーツェランが日本語を読むとき」というエッセイを読み、
最初にツェランの詩を読んで以来すでに25年ほどが経過しているにもかかわらず、
始めてツェランの詩がぐっとぼくのほうに踏み込んで来たような気がしたと同時に、
その「門」(モンガマエ)のついた七つの漢字に込められた
深い叡智を感じるようになった。
多和田葉子は、その「門」こそが、
「ツェランの詩の可翻訳性を体現しているのかもしれないという気がしたのだ」という。
ツェランと門…。
 
ここでツェランの詩について云々するのは荷が重いので、
このエッセイで多和田葉子のふれている「門」のついた七つの漢字について
見てみながら、なにがしかのことを示唆する程度にとどめたい。
 
        『閾から閾へ』という詩集のタイトルにモンガマエがすでに二回も顔を出す。
        「閾」という字の場合には、「門」との意味的な繋がりは一目瞭然、門も閾も、
        ある境界を表わしている。しかし、その境界を越えようとしているのでないこと
        は、この題名を見てもすぐに分かる。閾を越えるのではなく、ある閾から別の閾
        へと彷徨うのだ。
        (…)
        「聞」という字では、門の下には耳がひとつ立っている。聞くというのは、全身
        を耳にして境界に立つということらしい。
        (…)
        「薔薇七つ分だけ遅れて」と名づけられた一連の詩は聴覚について語っていると
        言っていいほどで、耳をすまして聞くということが境界というものから切り離し
        ては考えられない行為であることを何度も思い出させられる。
        (…)
        第三の詩「閃光」には、「閃」というやはりモンガマエの漢字が登場する。門の
        下に人がひとり立っている。それまで、わたしは、なぜ門の下に人が立つと、閃
        くものがあるのか、考えてみたこともなかった。もしかしたら、門の下、つまり
        境界に立っている人の目には、見えない世界から閃き現われてくるものが見えや
        すいのかもしれない。
        (…)
        五番目の詩「斧をもてあそびながら」の最初の一行にはStundenという単語が出
        てくるが、これを訳してみると、「時間」となり、またモンガマエが現われる。
        「間」という字のモンガマエの中には、昔は太陽ではなく月があったそうだ。門
        からのぞいて見たら、月の光が見えたというのが、「間」の感覚なのかもしれな
        い。
        (…)
        ツェランの詩は入れ物ではなく門である。わたしたちは読む度に門をひとつ通り
        抜けていく。門はいつも開いているのか。そう思って見ると、「開」という漢字
        も出てくる。
        (…)
        ひとつの言葉を記述することは、ひとつの門を開くことかもしれない。漢字のよ
        うな文字を読むということは、言葉(Wort)を読むことに繋がり、文章(Satz)
        を読むことではない。
        (…)
        「薔薇七つ分だけ遅れて」の最後の門を潜り抜けようと思う。モンガマエの付く
        七つ目の漢字は「闇」で、これは「暗闇から暗闇へ」と「客」という二つの詩に
        出てくる。この字は考えて見ると不思議な字で、門の下に音があるとどうして闇
        になるのかわからない。ツェランの詩を読んでいるうちにやっと、この漢字が理
        解できるようが気がした。
        (…)
        言葉では表わせない闇は、門の向こう側にあるように思えるが、門の下に音が立
        っているのが邪魔になって、門の向こうに何があるのか見ることはできない。し
        かし、その音という媒介が消えてしまえば、向こう側と繋がっているものがなく
        なってしまう。音は門を塞ぐと同時に、こちらとあちらを繋ぐ媒介でもある。耳
        を澄ませば音が聞こえて見えない向こう側に繋がる。
         (「翻訳者の門」
        『カタコトのうわごと』青土社/1999.5.20発行所収/P139-148)
 
門は境域にある。
門のこちら側と向こう側。
 
鳥居もまた門。
「開」には、門のなかに鳥居が書かれている。
鳥居は天と地を結ぶ心御柱であり、天へ向かって開かれている。
それはまた橋でもある。
天橋立。
 
門には、視覚ではなく聴覚が近しい。
門で耳をそばだてるのが聞くこと、
門のなかに目は書かれない。
 
音がして闇になる。
それは、門のこちら側が目に見える世界であるのに対し、
門のところで目に見えない世界に変わる。
 
鳥居に「鳥」という存在があるように、
そこからは地上を歩くのではなく、
他界へと飛翔しなければならない。
 
そこに人が立てば閃光が走り、闇になり、
耳をそばだてることが向こう側へと向かう道となる。
 
ところで、間にある「日」はかつて確かに「月」だった。
いつの間にか月が日になる不思議。
月には夜の闇が似合うが日は昼の世界。
月の時間と日の時間はどうもその性質を異にしているように思える。
 
門の下は境界になる。
門の向こう側へのあわいの時空、
異界への途上で、いったい何が現われてくるのか。


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