風のトポスノート438 

 

言葉の禁欲と夢想・官能のバランス


2002.11.24

 

この9月に宇佐見英治の亡くなっていたことを朝刊の書評欄で知った。
そういえば、この9月は毎日が戦争のような忙しさで
そうしたことを気に留める余裕もなかった状態だったのだろうが、
忙しさとは心を亡するとはよくいったものだ。
 
         厳しい夏がようやく去ろうとしていた九月のなかば、詩心を失わない
        硬質な散文の、数少ない書き手のひとりとして私淑していた宇佐見英治
        氏が、八十四歳で亡くなられた。美術批評、文芸批評、小説、エッセイ
        と、幅広い分野で紡がれた曇りない氏の文章の最大の魅力は、奔放な夢
        想とその暴発をぎりぎりのところで矯める禁欲の、これ以上ないバラン
        スにある。それが決して冷たくならずに、不思議な官能を生み出すのだ。
        (堀江敏幸/朝日新聞 2002.11.24 読書欄の「ブックラック」より)
 
宇佐見英治の言葉にふれはじめたのは比較的最近のことなのだが、
その言葉のまさに夢想と禁欲のバランスのとれた官能に魅せられ、
今はほとんど手に入りがたくなっている著作を求めて
図書館や古書店をめぐったことを思い出す。
手元にある『石の夢』『樹と詩人』『雲と人』という三冊の随筆集も
偶然古書店で見つけたものだ。
その題に「石」のあることからもわかるように、
石に魅せられつづけているぼくにとって、
『石の夢』はとりわけ愛着の深い一冊である。
 
宇佐見英治の言葉を読みながら恥じ入ってしまうことが多いのだが、
ぼく自身こうしていわば垂れ流している言葉のなんと禁欲的でないことか。
しかも硬質でありながらその結晶の内から立ち上ってくる官能とは
ほどとおい姿をさらしているような色のなさ…。
 
言葉というのは、安易に使えてしまうだけに、
そしてその違いをあきらかに見分ける人の少ないだけに、
書くということについてもっと自覚的であり、
また同時にそこに禁欲的なまでの夢想や官能を失わないようにしなければ、
容易にその生命は失われてしまうのだろう。
 
書くということに関連して、
今ちょうど読み進めている多和田葉子のエッセイ集に
このように書かれていたことを思い出した。
ご存じのように、多和田葉子はドイツ語と日本語で
作品を発表しているドイツ在住の作家である。
 
        日本の方が若い女性はデビューしやすいが、それは「感性」というものが
        誤解されているからに過ぎない。感性は思考なしにはありえないのに、考
        えないことが感じることだと思っている人がたくさんいる。だから、もの
        をあまり考えず、世界を身体でとらえ。ミズミズシイ感性とかいうものを
        持っていることにさせられている若い女の子が書いた小説、という腰巻き
        をつけられて小説が売られている。腰巻きなどというものは下着としては
        時代遅れであることは誰でも知っているのに、書物にこのような内容の腰
        巻きを付けることが時代遅れであることには誰も気づかない。
        (…)
        もうひとつ、これは男女にかかわらず、日本では売れる売れない、という
        ことがデータとしてではなく、一種の価値として通用してしまう。本が売
        れればその作家は庶民の心が理解できていると思っている人もたくさんい
        る。庶民の心を理解するのは政治家の仕事であって、小説とは関係ないの
        に、そもそも自分自身を庶民などという人間は大抵、面倒くさいからもの
        を考えるのをやめた知識人であることが多い。勉強したくてもできない環
        境にある人間がたくさんいる今の世界で、せっかく長々と学校に通わせて
        もらったのに、自分のすぐに理解できないものに出会うとすぐ難解だとケ
        チをつけるのは、単なる怠慢。
        (…)
        ドイツ語圏内で活躍する作家たちから学んだことは、数え切れない。特に
        五十歳以上の女性の作家からは学ぶところが多い。彼女らが「最近の若い
        人は」と言うのは耳にしたことがない。世代間に対話があれば、こういう
        台詞は生まれてこないのかもしれない。彼女らは作品を読んでくれるし、
        まじめに話の相手になってくれる。その上、大変美しい。日本にもそうい
        う作家はいるが、もっとたくさんいてほしいような気がする。
        高齢の女性が美しいと、見ているだけで、わたしも生命がぴんと張ってく
        る。種を増やすことが先決問題であった時代には、生殖に適した年齢の女
        性が美しく見えたというのもうなずけるが、思考することが先決問題とな
        ってきた今の時代、ものを考える人間が美しく見えてくる。
         (「ドイツで書く嬉しさ」
        『カタコトのうわごと』青土社/1999.5.20発行所収)
 
自分の使っている言葉は、官能を禁欲的に秘めながら、
そこにたしかな思考が生きているかどうか。
そのことを自問自答することを忘れないようにしたいものだ。
ときおり(ではなく、ほんとうはいつものことだが)
忙しい忙しいといいながらほんのわずかな時間で
心を亡くしたままこうして書き殴っている言葉は、
宇佐見啓治のような生きた結晶のような言葉とは
かけはなれた亡霊のような存在になって彷徨うことになる。
 
宇佐見啓治の言葉を読むと、
そして、みずからの言葉に没入することなく、
ドイツ語と日本語に対している多和田葉子の言語感覚から刺激を受けていると、
ぼくのように、言葉の生産を生業にしないで
好き勝手にこうして言葉を垂れ流している存在であっても、
決して思考を失ってしまってはならないし、
言葉を使うときにどうしても必要な夢想と禁欲のバランスのことを
思い起こさせてくれる。
 
しかし、あらためて思うのは、
ぼくのこうして書いている言葉に
決定的に欠けているように思う「官能」である。
「石の夢」ではないが、
鉱物を眺めているときに伝わってくるような
宇宙と大地の官能の響きのような言葉が使えないものか。
少なくともそういう夢想だけは亡くしたくないと痛切に思っている。
輝安鉱ほどの驚くべき官能的なまでの屹立までは望めないとしても…。


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